トップページ山行リスト(日付)>大峰・向山・富士居山_記録20071209


大峰・向山・富士居山

 山行日
2007年12月9日(日)       晴       単独行
 コース
半原(7:54)〜(8:50)大峰(8:58)〜(9:23)向山(9:25)〜(10:36)富士居山(10:46)〜(11:03)農村環境改善センター〜(11:12)三増合戦碑(12:03)〜(12:38)田代坂上バス停
 今年3月に南山、志田峠を歩きましたが、今回は、自己未踏ルートの中津川左岸に連なる大峰・向山・富士居山の山々を歩いてきました。その後、三増合戦碑の所で昼食。天気もよく、心地よい半日を過ごしました。


 本厚木に6:40着。
 今日は、宮ヶ瀬行きではなく、半原行きに乗車。バス停は、宮ヶ瀬行きと異なり、道路を渡らない駅側にある。
 すると既に長い列が。小学生の団体(サッカー少年?)らしい。試合でもあるのだろうか。こんな朝早くから集合というのも、すごいスケジュールだ。
 6:50、定刻通り、バスが出発。
 途中で、少年達が降りると一気に車内は、寂しくなった。

 7:40、終点半原バス停に到着。下車した客は、私一人。運転士に挨拶して下車。
 いきなり朝日が眩しい。が、まだ気温は、低い。このため、上着を脱ぐ気にはなれなかった。ちょっと準備運動して、出発する。(7:54)
[半原バス停にて]

 中津川を渡る。右手前方には、これから登る予定の大峰方面が眺められる。(写真下左) 
 大峰の標高は、334.5m。標高は低いが、今回の山行は、初めての道ゆえ、ワクワク気分で歩いていく。
 丹沢地図を見ると、大峰への登山ルートは、川を渡った後、大峰側に書かれてある。だが、周囲は、住宅街で道が分岐している。勘を頼りに進んでみると、人の家の前に出たり、私道に何度か入り込んでしまった。そんな訳で、結構、時間をロスする。(ちょっと右に曲がるのが早過ぎたようだ)

 こっちの方向かなと進んでいったら、8:10、登山道の標識を発見。(写真下右)
 しかし、その登山道の方向を見ると、これまた人の家の庭に入っていくように見える。本当に、この方向?と思いながら、進んでいく。
[中津川の上から大峰方面を望む] [登山口の標識を見つけた]

 人家の横を通り抜け、小さな川を渡り、山道になった。土の上を歩くことに思わず快感。だが、その快感もつかの間、山道が急登になり、かつ、落葉で靴が滑り、難儀な状態。
 周囲を見ると、竹が伸びている。竹林とは珍しい。丹沢で他にどこにあったかな、という事を思い出しながら、一歩一歩登っていく。
[いよいよ出発] [竹が混じる林の中を進む]

 すると、8:16、前方に道標が見えた。(写真下)
 登山口の簡易的な標識を見ていたので、このような本格的な道標に少しばかり驚いてしまった。
 この道標からは、傾斜も多少緩み、道幅も広くなり、歩きやすくなる。
[比較的新しい標識を見つけた]

 左手前方を見上げると、朝日の当たる山頂付近が木立の向こうに見える。(写真下左)
 標高300mちょっとの筈だが、まだまだ遠く感じる。

 落葉の中には、まだ色あせていないモミジの葉が目立った。(写真下右)
 この山々にもモミジ系の木が多いということだろうか。であれば、紅葉も多少期待できるというもの。
[まだ遠い山頂] [落葉の中にモミジが赤い]

  本当に標高300mなの?と思えてきた頃、目の前に道標が出現。(写真下)
 ようやく、稜線に乗ったようだ。左に目を向けると、すぐそこが、大峰山頂だった。
[丁字路に出た]

 8:50、大峰山頂到着。山頂といっても、周囲は、南側の雑木林と北側の植林で、視界が広がらない。半原市街地あたりでも見渡せるかと思っていたが、ちょっと期待外れだった。
 山頂には、比較的新しい標識が立っていた。裏面に小さな銘板があり、「この標識は、愛川町町民アイディアまちづくり事業の補助によって作られました」との記述あり。
 まだ朝日が眩しい時間帯だ。逆光になると、うまく撮影できない。セルフでの記念撮影後、早々に立ち去る。(8:58)
[大峰山頂にて(標高334.5m)]

 ここからは、稜線に沿って歩くが、やはりというか、樹林帯のため、視界は左右ともに塞がれている。
 左手は、殆ど植林帯で、右手が雑木林というケースが多かった。よく見ると、モミの木も見受けられ、時々、ヤマザクラの木も見つかる。
[植林帯を進む]

 9:10、左側の方から、「パーン」と一発の発砲音が聞こえた。この辺りでも狩猟を行っているのだろうか。 
 左右が植林帯(杉と檜が混じっているようだ)となり、鞍部から一気に登ると、前方にアンテナのようなものが見えた。近づいてみると、「テレビ中継放送所」と書かれてある。どうやら、ここから愛川町などに電波を送り出しているようだ。
 その横に工事中と思われる穴が掘られてあった。
[アンテナ塔が立っていた] [山頂は、工事中]

 穴のすぐ先に、「向山」の標識を見つけた。さっきの大峰と同じような標識だ。(9:23)
 標識の立っている場所からグルリと見渡しても、植林帯で、視界は広がらない。山頂は、木に囲まれた小広場という感じだ。
 あまり、休憩する気にもなれなかったので、2,3分で立ち去る。
[山頂に標識あり]

 向山山頂から1分もしないうちに分岐点出た。
 左手が志田峠に行くルート。だが、今回は直進していく。
 山道は、それほど手入れが行き届いている(逆に言えば、自然のまま)とは言えないが、このルートは、道標が立っている分、安心して歩ける。
[志田峠への分岐点]

 急な下りとなった。今回初の急降下である。しかし、その下りは、3分程度であっけなく終了。

 少し緩く登り、再び下りとなる。下りきった所で、ふと右手を見ると、樹林の間から市街地が見えた。ちょっと山道を外れ、右手の方に踏み込む。
 すると、今回、ようやく遠景を眺めることが出来た。
[下りになる]

 再び登りとなるが、すぐに終了。その後、緩やかな下りとなり、鞍部に出ると、道標に気がついた。(写真下)
 1/25000地形図や山と高原地図28「丹沢」にも表示されていなかったが、ここは、十字路になっていた。道標には、中津川側に「愛川橋バス停・隠川」、志田側は、「志田・三増合戦場碑」と書かれてあり、1/25000地形図で見ると、中津川側は、かなりの急斜面のようで、どんなルートなのか、ちょっと興味が湧く。

 この道標をメモしている時、富士居山方面から熊鈴の音が聞こえてきた。
 すると、犬が2頭、出現。これらの犬の首には、熊鈴が付けられていた。猟犬である。であれば...と思っているうちに案の定、一人のハンターと出会う。すると、今度は、愛川橋の方から、別のハンターが一人現れた。挨拶の後、話をしていると、さらに犬が1頭、どこからか出てきた。結局、ハンター2人は、その後、休むこともなく、ともに志田方面に下っていった。やはり、9:00頃聞いた発砲音は、やはり銃声のようだ。
[十字路に出た]

 さらに直進していく。
 10:03、右手に紅葉した木が目に入る。近づいてみると、やはりモミジ系の木だった。久々の紅葉にデジカメ撮影。(写真下左)
 再び山道に戻って、先を急ぐ。
 周囲は、相変わらずの樹林帯。(写真下右) 大峰からここまで、山のイメージは、ほとんど変わらない。
[紅葉している木を発見] [相変わらず樹林帯]

 小さなアップダウンを繰り返した後、紅葉のピークを迎えた木に遭遇。
 思わず、ザックを下ろして、下から撮影する。
 ちょうど太陽が逆光で、葉を透かすようにして下から見上げる。鮮やかな赤色・橙色が目に映る。デジカメということもあり、何枚も撮影してしまった。(10:30〜10:34)
[紅葉している木の下で]

 とても印象深い紅葉だったと満足しながら、一直線の緩やかな登りを進むと、そこで標識を見つけた。富士居山の山頂だった。ここも大峰・向山同様の標識が立っていた。(10:36)
 半原市街地方面は、樹林の間から、覗くことが出来る。ここから眺める仏果山・高取山は、結構大きく見える。手前に広がる台地のせいだろうか。
 反対側も半原側ほどではないが、丘陵地の光景が木立の間から少しだけ見えた。
[富士居山山頂標識] [山頂からの光景(手前:仏果山、右奥:高取山)]

 最後のピーク富士居山に到達したことで、ここからは、下りとなる。
 いきなり山頂から直線的な下りが見下ろせた。(写真下左)
 だが、1分も下らないうちに道標を発見。「下山は、左折する」と手書きされており、そちらに方向を変える。
[直線の下りと思ったら] [道標に出会う]

 落葉が敷き詰められた、気持ちのよい下りを味わった後、右手を見ると、すぐ下に畑があった。簡単に下ってしまったという印象だ。
 そのうち、右手に畑が広がった。
[歩きやすい道]

 11:00、車道に出る。振り返ると、登山口の標識があった。(写真下左)
 その車道の反対側は、グランドだった。右手に小さな校舎が見えるので、てっきり小学校に出たものとばかり思い込んでいたら、この校舎のような建屋が道標に書かれてあった環境改善センターだった。
 正式には、「愛川町農村環境改善センター」と言うらしい。
[車道に出た(振り返って撮影)] [目の前はグランド]

 車道を南に進んでいくと、さらに立派な車道に出た。そこには、「三増合戦みち」と書かれた標識が立っていた。ここを左に進み、緩やかな上り坂を歩いていくと、見覚えのある光景に出くわした。
[合戦みちの標識]

 三増合戦場の碑に到着。(11:12)
 ここで、ザックを下ろし、デジタルオーディオプレーヤーを取り出す。聴く音楽は、最近入手したNHK大河ドラマ「風林火山」完結編というCDから録音した
 ・風林火山〜メインテーマ〜(語り付き) 
        語り:内野聖陽 指揮:高関健 NHK交響楽団
 ・風林火山〜大河流々〜 
        ヴァイオリン:千住真理子
など。
 要は、今年の大河ドラマの主題歌と、番組本編終了後に紀行コーナーで流れるBGMである。(ちなみに紀行のBGMは、このヴァイオリンの他、二胡、フラメンコギター、津軽三味線もある)
[三増合戦碑]

 NHK大河ドラマ「風林火山」の主人公、山本勘助は、この三増合戦の際、既にこの世に居なかったが、武田軍には、信玄をはじめ、武田四名臣の山県昌景、馬場信春、内藤昌豊などが、この地で北条氏照・氏邦軍と戦っている。
 石碑の裏手に立ち、今は、畑地となっている合戦場跡の光景を眺めながら、ヴァイオリンの音色を聴く。視覚と聴覚の融合から、何ともいえない感動を覚える。
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 ここで、少々脱線。
 初めてこの地を訪れたのは、今年3月だった。
 その時、北条軍と武田軍の合戦が、この地で行なわれたことを知った。
 石碑の奥に説明板がある。以下、転載。(実は、石碑の背面にも類似の文章が書かれてあるが、非常に読みにくかった)
 『永禄十二(1569)年十月、甲斐(今の山梨県)の武田信玄は、二万の将兵をしたがえて、小田原城の北条氏康らを攻め、その帰り道に三増峠をえらんだ。
 これを察した氏康は、息子の氏照、氏邦、娘の夫綱成らを初めとする二万の将兵で迎え討つことにした。ところが、武田軍の近づくのをみた北条軍は、半原の台地上に移り、態勢をととのえようとした。
 信玄は、その間に三増峠のふもと桶尻の高地に自分から進み出て、その左右に有力な将兵を手配りし、家来の小幡信定を津久井の長竹へ行かせて、津久井城にいる北条方の動きを押さえ、また、山県昌景の一隊を韮尾根に置いて、いつでも参戦できるようにした。北条方は、それに方々から攻めかけたのでたちまち激戦となった。そのとき、山県の一隊は志田峠を越え、北条軍の後から挟み討ちをかけたので、北条軍は総崩れとなって負けてしまった。この合戦中、武田方の大将浅利信種は、北条軍の鉄砲にうたれて戦死した。
 北条氏康、氏政の親子は、助けの兵を連れて荻野まで駆けつけてきたが、すでに味方が負けてしまったことを知り、空しく帰っていった。
 信玄は、勝ち戦となるや、すぐ兵をまとめ、反畑(今の相模湖町)まで引き揚げ、勝利を祝うとともに、敵味方の戦死者の霊をなぐさめる式をとりおこない、甲府へ引きあげたという。
                    平成三年三月     愛川町教育委員会 』

 前回、初めてこれを読んだ時、何か不思議に思った。
 上記の説明文だと
    三増峠付近     :武田軍 
    峠の南側・西側   :北条軍(氏照・氏邦・綱成) 
となる。
 でも、小田原から氏康・氏政軍が出陣してくるのであれば、八王子方面からの氏照・氏邦軍は、武田軍の北側(すなわち、三増峠)に陣を張り、武田軍を挟み討ちにするべきではないだろうかと。
 その後、全くの素人ながら、いくつか文献(小説含む)を調べてみた。

 ○新田次郎「武田信玄」では、驚いたことに上記とは、逆になっている。
   三増峠     :北条軍(氏照・氏邦・綱成) 
   峠の南東側  :武田軍
 新田次郎氏は、この小説の中で、「甲陽軍艦は、史書として誤りが多いことを多くの学者から指摘されているが、信玄の小田原城攻撃から三増峠の戦いまでは、他の文献に徴しても信頼性があるように思われることから甲陽軍艦を基として書き進めた」と述べている。
 つまり、甲陽軍艦では、どうも現地の説明文とは、逆の位置で戦いが行なわれたと記述されているようだ。

 ○小田原北条記(江西逸志子 原著)では、
   三増峠付近  :武田軍 
   峠の南東側  :北条軍 
と記載されている。
 内容を大雑把に記述すると以下のようになる。
 『武田軍は、甲斐に引き返す際、追跡してくる北条軍に対抗するため、三増峠で軍勢を配備した。戦が始まって、武田軍浅利信種を討ち取り、北条軍優勢の時に北条軍は、小田原へ旗本の軍勢を送り込むよう依頼した。その結果、氏康・氏政父子が、二万の軍勢を引き連れていったが、前線では、山県昌景や逍遙軒(信玄の弟)などが思いがけない森の陰から突撃をかけて来た。このため、北条軍は、総崩れになり、半原山へ逃げ登った。その時、氏康父子は、三里(11.2キロ)離れた所まで駆けつけていたが、武田軍は、軍勢を繰り出して来なかった。このため、氏康父子は、苦労したわりに見返りもなく、いたずらに軍勢を小田原に戻した。』
 これだと、初めから挟み討ちという考えは、北条氏康・氏政には、なかったことになる。

 ○ちなみに現役の作家である井沢元彦氏の歴史小説「覇者」〜信濃戦雲録第二部〜でも三増峠の戦いが出てくるが、作者の意向だろうか。陣の位置は、単純ではなく、ちょっと凝ったプロセスを経ている。
 そして結果的には、
   三増峠付近  :武田軍
   峠の南東側   :北条軍 
という配置となっている。

 ○古本屋で入手した本「郷土史探求族 県北をいく−神奈川の陸の道−18の歴史風景」財団法人横浜銀行産業文化財団編(西北社:1988年3月24日発行)の中に三増峠の合戦の記述がある。
 これによると
   三増峠で待ちうけ  :北条軍(氏照・氏邦・綱成) 
   峠に侵攻       :武田軍
となっている。

 どうも、陣の位置については、はっきりしないようだ。そんな時に、インターネットで下記サイトを見つけた。
   「武田家の史跡探訪」  http://www.zephyr.dti.ne.jp/~bushi/index.html
 この中に「三増合戦場」というページがある。
 やはり、既に同じような疑問にぶち当たった方は、居られる訳で、内容を読んで、なるほどと思った。
 当初、冒頭のように北条軍が三増峠下で、武田軍が峠にて対峙というのは、不自然と思ったが、調べているうちに
 ・武田軍は、小田原からの退却を極めて迅速に行なった。
 ・その結果、小田原城の氏康・氏政父子をはじめ、北条軍は、武田軍が三増峠に向かう頃にようやく武田軍の行動を把握した。
 ・そして、北条氏康は、武田軍追討の軍を出させた。(氏照、氏邦等)
というような状況であれば、武田側も甲斐までに逃げ切れないと判断し、追跡してくる北条軍を一掃するために三増峠を越えたところで、陣を張ったので、
  三増峠付近   :武田軍
  峠下の南東側 :北条軍
という、現地での説明板の通りになるかな、と思った。(でも、北から来る氏照、氏邦だと、ちょっと苦しいか?いずれにしても、最初から最後までガッツリ、峠上と峠下で対峙した訳ではなく、時間軸を考慮する必要があると思われた)
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 昼食は、ロールパンに辛子をつけたハムを挟んだもの。至ってシンプル。それに持参したテルモスの湯で、ホットコーヒーを作る。相変わらず、「風林火山」の音楽を聴いている。
[休憩所でザックを下ろす] [昼食のロールパン]

 結局、愛川町のイラストの観光案内図を見たりして、1時間近く、この場で過ごしてしまった。しかし、その間、この石碑を訪れた人は、自分以外におらず、静かなる史跡を独占していた。
[愛川町イラストマップ]

 合戦碑を出発し、再び来た道を引き返す。前回は、南側に進んだが、今回は、西側を歩いてみることにした。
 合戦碑に向かう時には気がつかなかったが、右手に富士居山、その奥に三角形の山が見えた。(帰宅後、調べたら、その三角形の山は、今日歩いた向山だった)
 今日歩いた山も三増峠の戦いの時は、戦場の一部となっていたかもしれない、そんなことを思いながら、歩いていく。
[富士居山(左)を望む(右奥ピークは、向山)]

 右折すれば環境改善センターという所まで戻ったら、前方に白い立札を発見。(写真下左) 来る時は、全く見落としていた。近づいてみると、首塚とあった。
 立札の内容は、下記。
 『首塚
 不動明王を祀る小高い所を首塚という。宝永三年(1706)建立の供養塔がある。
 このあたりは、三増合戦(1569)のおり、志田沢沿いに下ってきた武田方の山県遊軍が、北条軍の虚をつき背後から討って出て、それまで敗色の濃かった武田方を一挙に勝利に導くきっかけをつくったところという。
 この戦いのあと、戦死者の首を葬ったといわれるのが首塚であり、道をへだてた森の中には胴を葬ったという胴塚がある。
 なお、三増合戦での戦死者は、北条方3269人、武田方900人と伝えられる。
                                    愛川町教育委員会』


 その後、車道に沿って歩く。すると、すぐに胴塚の立札を発見。
 車道から振り返って、富士居山を望む。(写真下右)
 この富士居山は、どこから見てもピークが尖がっているせいか、とても目立つ山だ。
[首塚] [富士居山を望む]

 車道が下りとなり、右手に校庭が見える。愛川中学校と書かれてあった。車道側のグランドには、ネットが張ってあったが、その向こうに、やはりというか、富士居山の姿があった。(写真下)
 こちら側の山肌は、紅葉が目立つ。
[愛川中学校の向こうに富士居山]

 坂を下りたところで、今朝乗った半原行きのバスが通った車道に出た。バス停を探すと、すぐ先に田代坂上のバス停を発見。
 こうして、今回の山行を終えた。
 [田代坂上バス停に到着]


 今回の山行では、視界が広がる箇所が、すごく限られておりましたが、それでも初めてのコースだったので興味深く歩くことができました。
 文中にも書きましたが、途中の十字路のルートを横断するようなコースを、いつか歩いてみたいと思います。
 
 また、いつの間にか狩猟のシーズンになっておりました。丹沢では、バリルートも一般登山道でも猟区内を通ることになります。例えば、宮ヶ瀬尾根・鍋嵐付近のバリルート、あるいは、三叉路から本間ノ頭までの一般登山道も猟区内となっています。これからは、コース選定に注意が必要であることに気がつきました。



※山行時間には、撮影時間を含んでおりますので、ご注意下さい。