トップページ山行リスト(日付)>津古久峠_記録20110206


津古久峠

 山行日
2011年2月6日(日)       曇り         単独行
 コース
小野橋(9:31)〜(9:49)子安神社(10:06)〜(10:15)津古久峠(10:26)〜(10:35)津古久峠茶屋跡(10:41)〜(10:58)総合運動公園展望広場(11:10)〜(11:43)専修大学入口
 津古久峠というのは、今はどうあれ、厚木市と伊勢原市の市境にある由緒ある峠です。そんな訳で、今年1月に白山から津古久峠へと歩いたのですが、その際、津古久峠茶屋跡の標柱を訪問し忘れました。
 ということで、今回は、その標柱訪問を目的とし、そのために予め地図で調査し、茶屋跡の位置にある程度、目星をつけてから、現地に向かいました。
 詳細は、以下をご覧下さい。


 今回、小田急線愛甲石田駅で、初めて下車した。この駅は、厚木や伊勢原の住宅街・会社向けのバス発着所であり、全く利用する機会がなかったのだ。(記憶を辿ると、乗車で利用したことが1回だけあり、それは、第1回のニカニカ集会の帰りにシチミさんの車で送ってもらった時だった)
 バス乗り場を探す。階段を下っていくと、幸いにも、すぐ先がバス乗り場だったとわかった。
 奥の4番乗り場では、松蔭大学行きのバスが停車していた。そのバス乗り場で発車時刻を確認していたら、その松蔭大学行きのバスが出発してしまった。
 「あれっ、今のバスでよかったのだ。」
と、思っても後の祭り。
 9:00ちょうどの松蔭大学行きのバスが出発していったが、幸い、次に七沢病院行きのバスが9:15にあったので、事なきを得る。
 ....バスを逃がすというのは、結構、ヒヤヒヤもの。

 9:30、小野橋にて下車。バス停の撮影をして、すぐに出発。
 少し戻って信号交差点を渡る。この交差点で右折し、車道を歩いてもいいのだが、もう少し静かな道がいいだろうと思い、もう一本奥にある細い道を右折して、南下することにした。
[今回のスタート地点:小野橋バス停(七沢病院行きでのバス停)]

 最初は、住宅街だったが、登り坂になり、右手に大きな工場建屋を見る。
 進んでいくと雑木林が現れた。このあたりは、まだ宅地化が進んでいないようだ。
[雑木林の道]

 丘の上まで登りきると、今度は、左手の視界が広がる。
 長閑な風景だ。手前の畑には、梅の木が並んでいた。よくみると道路に近い所で白梅が咲いていたので、ちょっと寄り道して撮影。(写真下)
[白梅が咲いていた(奥には紅梅もあり)]

 道を下っていくと、車道に出た。ふと右手を見たら、鳥居が立っていた。地図で確認すると、ここが子安神社とわかった。ここでも寄り道することに。
 鳥居をくぐって階段を上がっていくと、すぐに目の前に赤い屋根の社殿が建っていた。(写真下左)
 参拝した後、誰もいない境内をぶらつく。すると、左奥にこの神社の説明板を発見。それによれば、『子安神社の創立は、不詳でありますが、古社調査事項取調書(明治29年、1896)によれば、文明18年(1486)以前の創立であります。』と記載されている。その後、神社の歴史などが説明され、さらに『境内には御神木の楠木がありますが、樹齢八百年以上の古木と言われ、見るからに子安神社の歴史を物語っています。』とある。
 確かに樹高のある常緑樹が目に入った。(写真下右)
 根元から2本に幹が分かれている大木がある。これが先程の御神木の楠木だろうか。
 近づいてみると標柱が立っており、『保護指定樹木「クス タブノキ」厚木市』と書かれてあった。
 すると、これは、タブノキだろうか。
 もう少し奥に1本の幹が伸びている大木があった。これも常緑樹である。こっちが御神木の楠木だろうか。
 ....でも、ちょっと地味である。
 残念ながら、クスとタブノキを見分ける能力がなく、樹名がよくわからないのだが、やはり2本の幹を伸ばしている大木が御神木に間違いないだろう。
 ....2本に幹が分かれているが、大昔は独立した木だったのが、成長してくっついてしまい、左がタブノキで右がクスだと解釈するのかとも考えてしまった。 
[子安神社] [境内の大木]

 だいぶ子安神社で時間を使ってしまった。ちょっとペースを上げることにした。
 下り道の車道を進み、その後、登り坂となった。時々、車が通ってくる。
 坂道を上っていく途中で、津古久峠に出た。(写真下)
 石の標柱が建っている。
 今回は、標柱の側面に書かれてある文章を指で触りながら、どうにか読み取る。
 そこには、こう記載されていた。
 『後北条時代に小田原と武蔵を結ぶ小田原道として発達し、江戸時代になると大山参りの人々がこの峠を越え、大山道として発達した。最盛期には、峠にお茶屋もあったと伝えられている。』
[再び津古久峠へ]

 津古久峠は、そもそも戦国時代の北条氏によって発達してきた峠なのかなと思う。
 北条氏は、2代目氏綱の頃から武蔵国方面に勢力を拡大するため、小田原から出陣し、幾度となく、戦を行ってきた。そして3代目氏康の時、河越城夜戦で勝利を得た後、八王子に氏康の三男氏照、北武蔵に四男氏邦を置き、武蔵方面に北条氏の勢力を広げていった。
 だとすれば、その頃には、ここを1日何回と早馬が駆け巡ったこともあったのだろう。そんなことを考えながら、伊勢原方面へ歩いている。

 実際の峠は、標柱の建っている場所より、もう少し山奥の、ちょうど今、日産のテクニカルセンターのある敷地内ではなかったかと思う。
 日産テクニカルセンターのゲートを左に見て、ここから陸橋までのあたりが、一番標高が高そうだ。だが、今は、フラットに整地されている。
 伊勢原市側に入った。
 下り始めるところで、右折する分岐路がある。石の標柱には、「自然散策路」と書かれてある。
 前回は、ここを曲がらず、車道をそのまま下ってしまったが、今回は、この自然散策路に右折して入る。事前の地図調査から、この先に津古久峠の茶屋跡の標柱があると睨んでいる。
[伊勢原側に出る「自然散策路の石の標柱]

 舗装路の登りがすぐに終わると、道が二分していた。左の下っていく道は、舗装路で、右手の道は、未舗装路である。
 予想では、このあたりに茶屋跡があったのではないかと思ったのだが、見事に外れた。
 以前、「峠のむこうへ」さんのHP「峠のむこうへ」にて茶屋跡の写真を見た時、確か未舗装の道に建っていたので、ここは、右手の道を進む。
 だが、本来の峠道は、左手の道のように思える。左の道は、そのまま伊勢原方面に下っていく道で、最終的には、峠から下っていく車道に合流する。まさに峠への旧道という感じなのだ。
[分岐点が現れる]

 右の未舗装路を進み、右にカーブしていくところで、茶屋跡の標柱を発見。
 ここで、標柱の側面の文字を読取る。
 『小田原北条時代は、小田原と八王子を結ぶ軍用道で、江戸時代には、大山参りの道となり、ここにお茶屋があった。』
 先程の津古久峠と若干、表現が異なっていた。津古久峠では、「後北条氏」と書かれ、ここでは「小田原北条氏」と書かれてある。どちらも鎌倉時代の執権だった北条氏と区別するために歴史家から単に「北条氏」と呼ばれていない戦国時代の北条氏を指している。
 だが、標柱の背面に回って納得した。ここの背面は、こう書かれてあった。
 『平成三年三月 伊勢原市』
 先程の津古久峠の標柱の背面には、以下のように書かれてあった。
 『昭和五十七年三月 厚木市』
[津古久峠茶屋跡の標柱を発見]

 どうやら表現の違いは、厚木市と伊勢原市の違いによるものと思われた。
 ちなみに、この標柱は、どうして出来たのか、ネットでいろいろ調べてみたら、「めざせ!厚木博士」なるサイトを発見。これは、厚木市の小中学校の先生方が厚木市の地域学習用教材として作成されたものらしい。だが、中身は、大人が読んでも全く遜色ない内容である。
  ....固有名詞の漢字にも、ルビが振ってあるので、大助かりだ。
 これによると、厚木市は、津古久峠にあるような石の標柱を「ふるさと道標」と命名し、昭和57年2月1日に最初の柱を設置し、以後毎年少しずつやしているらしい。だが、伊勢原市の方は、ネットで探すことができなかった。
 さて、茶屋跡の周辺だが、この標柱の建っている箇所に建屋があったとすると、当時は、手前の林もなく、伊勢原の平野を眺めながら、お茶を啜っていたのだろう。そうであれば、このあたりに茶屋があったとしても不思議ではない。
 気になるのは、道の方で、旧道というのは、このフラットな道が続いていたのだろうか。そうだとすると、伊勢原側から峠に向かう道は、どこから続いていたのだろうか。
[トラバース路が続く]

 トラバース路が続き、右手の斜面を登る分岐路が目に入る。
 道標が立っていて、右折は、総合運動公園展望広場と書かれてある。展望広場とは?と、思い、ここでも寄り道することにした。
[丁字路に出た]

 ちょっと階段を登っていくと、広場に出た。(写真下)
 天気がよければ、大山の頂上が眺められる場所だった。今日は、残念ながら薄っすらと肉眼で見える程度だ。右手にまだ高台があったので、そちらに向かう。
[広場に出る]

 階段を登った先が、最高地点だ。上がってみた所、小広場となっていた。残念ながら、津古久峠方面は、手前の山が邪魔でよく見えなかった。
 大山南尾根側を眺める。
 再び、来た道を引き返し、丁字路に戻る。それにしても天気が悪いせいか、広場で遊ぶ人もチラホラ程度だ。
[公園の最高地点]

 トラバース路を行く。
 右手に炭焼き小屋のようなものがあり、煙が出ていた。このあたりが、歴史のある道かどうかは、わからない。(写真下) 今の姿を見てしまうと、総合運動公園を作った時の道のように思える。
 先程、見えた観客席のある野球場を右に見て、やがて緩い下りとなった。今度は、左にも野球のグランドを見る。こちらは、専修大学のグランドのようだ。
 野球場の次は、ラグビーの練習風景を左に見る。
[再びトラバース路を行く]

 車道に出ても、緩い下りとなる。ふと、左を見たら、ここにも自然散策路の標柱が建っていた。
 この先の丁字路で、直線路が細くなるので、右折し、道幅の広い車道を歩く。
 すぐ先が、バス通りだった。
 古来の道もこのあたりから津古久峠に向かうようなルートだったのだろうか。県道63号相模原大磯線が、昔の小田原道であったとすれば、このあたりが峠への入口だったかもしれない。(今の県道63号自体は、津古久峠から少し外れてしまうのだが)
[石の標柱をここでも発見]

 11:43、専修大学入口バス停に到着。
 ここは、七沢方面からのバスと、日向薬師からのバスがあるので本数は多い。伊勢原駅北口行きの次のバスは、11:49発だった。
 今日は、半日のハイキングコースだったが、こういった歴史のある道は、いつ訪れても楽しいし、興味深い。充実した半日だった。
. ....「目指せ!厚木博士」で次のネタを考えよう。
 [専修大学入口バス停にて本日の散策終了]


 第12回 水源環境保全・再生かながわ県民フォーラム「森とシカの一体管理」が開催されるということで、帰りにフォーラム246(愛甲石田駅から徒歩約10分)に立ち寄った。
 M−Kさん、AYさんと出席。
. ....その後、2日続けてAYさんと反省会となったのは、言うまでもない。
[午後は、フォーラム246(背後の建屋)]



※山行時間には、撮影時間を含んでおりますので、ご注意下さい。