トップページ>山行リスト(日付)>弘法山_記録20120320
秦野駅(9:25)〜(9:37)命徳寺(9:45)〜(10:02)浅間山〜(10:07)権現山(10:12)〜(10:28)弘法山(10:37)〜(11:08)御嶽神社〜(11:45)石庄庵(12:22)〜(12:52)波多野城址(13:00)〜(13:19)金剛寺(13:25)〜(13:29)源実朝公御首塚(13:35)〜(13:36)田原ふるさと公園(14:02)〜(14:10)東田原神社(14:12)〜(14:34)八幡神社(14:38)〜(14:40)香雲寺(14:59)〜(15:35)そば處丹沢そば(16:00)〜(16:18)秦野駅 |
今月の週末土曜は、雨が続き、日曜は、やたらと用事があり、なかなか山行のチャンスがなかったのですが、今日は、久々の晴天フリーの休日となりました。ですが、急に腰痛が発生したため、今回は、低山歩きを計画。ただ低山を歩くのは、面白くないので、蕎麦屋のハシゴをしながら、秦野の史跡を訪ね歩くこととしました。
詳細は、以下をご覧下さい。 |
秦野駅に降り立てば、雲ひとつない青空が出迎えてくれた。 これからことを考え、インナーを脱ぎ、デジカメをザックから取り出す。 階段を下って、いつものヤビツ峠行きバス乗場を通り過ぎ、正面の水無川へと向かう。
最初の目的地は、命徳寺。 自宅を出る前にインターネットで調べたところ、ここには、白梅があるらしい。ちょうど弘法山への通り道にあり、白梅の開花状況を知る上でも立ち寄りたい場所だった。
時々、冷たい風が頬に当たる。
花粉が飛ばないことを祈りながら、水無川沿いを歩いていく。 |
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[今回のスタート地点:秦野駅] |
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命徳寺に到着。
参道に白梅の並木があり、見事に開花していた。(写真下) どうやら、秦野では、今が白梅の開花タイミングのようだ。これで今日の楽しみが増えた。
奥に進むと、小さな山門があり、秦野市教育委員会の説明板が立っている。それによると、屋根が茅葺の切妻造である、この山門は、「薬医門」といわれる形式で、細部の様式などから17世紀初期ごろの建築と推定され、市内で最古の山門であるらしい。
タイミングよく咲いていた白梅に古風な山門。小さなサイズといい、茅葺、なかなか趣のある光景だった。 |
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[命徳寺にて白梅観賞] |
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次に弘法山の手前にある権現山に向かう。 弘法山入口と書かれた大きな標識の前を通り、山道を登っていく。 今日は、ザックが軽いので、息が切れることなく、登っていけた。 ....腰の調子も良さそう。
途中の浅間山を通過し、10:07、権現山到着。展望台に上がる。 富士山が、薄っすらと見えた。だが、この時間帯では、霞んでくるようだ。 視点を大山方面に向けると、大山のほうは、まだクリアに見えた。手前の広場にある並木は、桜なのだが、まだ今の段階では、単なる裸木で、人影も疎らだ。
今日は、じっくり撮影することなく、弘法山に向かう。 ....でも前田夕暮の歌碑・説明板などには、目を通したのだ。 |
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[権現山展望台から] |
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権現山を下り、一直線の幅広い砂利道(馬場道と呼ばれている)を進む。ここも権現山と同様、桜並木が続き、花見のシーズンでは、とても賑わうエリアだ。だが、今は、陸上部の高校生が数人、トレーニングをしているだけだった。
弘法山、10:28着。
弘法山は、過去に3回訪れているが、それほどじっくり見物したことがなかった。今日は、じっくり説明板を読んだりして過ごす。
まず、目立つのが、山頂の井戸である。
説明板には、「弘法の乳の水」とある。この井戸から湧き出た水は、白くにごり、いつも乳の香りがしていたという。
古来、この弘法山山頂は、弘法大師が修行した場所だという言い伝えがある。
それゆえ、井戸が掘られたのだろうか。
もっと現実的な理由で、井戸を掘ったのではないだろか。
ふと、そんな疑問が湧く。
そういえば、ここは、昔、東波多野城の一角だったというような記事を何かで読んだことがある。城であれば、井戸があっても納得がいく。(帰宅後、ネットで調べたら、城跡だから井戸があったという、同じような考えを持った方のブログを見つけた。やはり、考えることは、皆、同じようだ。)
「あれっ、道が出来ている」
弘法山頂上から東南東側へ続く尾根に対し、登山道が出来ていた。(以前には無かったと思うのだが。)
道標まで立っている。行き先は、東海大学前駅だ。この尾根は、いつか下ってみたいと思っていたのだが、下る前に道が出来てしまった。
....ちょっと残念。
山頂には、他に釈迦堂がある。
説明板によれば、弘法大師の旧跡であることから古くより福泉庵という堂があり、それが荒廃した姿になっているのを江戸時代の中頃、龍法寺(弘法山南側にある)の僧 馨岳永芳が釈迦如来像と弘法大師像を祭って新たに堂を建て、釈迦堂としたのが、釈迦堂の始まりのようだ。
その後、明和3年(1766)の火災で釈迦像が焼失し、石造の弘法大師像のみとなった。再建後は、弘法大師の木像が安置され、関東大震災、昭和7年の台風などで被害を受け、現在の釈迦堂は昭和39年に完成したとの事。
弘法大師像が祀ってあるだけなのに釈迦堂と呼ばれているのには、それなりの長い歴史があったのだ。
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[弘法山頂上 弘法の乳の水] |
[弘法山頂上 釈迦堂] |
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弘法山を出発し、吾妻山方面に向かう。今日は、善波峠でR246に下りて北上するつもりだったのが、予定変更となった。 というのも、弘法山を下ってすぐ、左手に梅林を発見。それも白い花をつけている。 思わず、そちらに足が向く。 ちょうど、左側へ分岐する小道があり、それを下って行った。
近づくと、白梅が満開だった。デジカメを取り出し、撮影タイム。
少し下ると、羊牧場に出た。(写真左) 地図で確認すると、まほろばめんようの里という場所のようだ。 すると、白梅の小さな林が目に入った。
またしてもデジカメを取り出す。
さらに坂道を下っていくと、左手に満開の白梅の林が。 すぐに今度は、右手に白梅が、これまた満開。 次々と現れる梅林に目を奪われっぱなしだ。
. .....こんなに梅林があるとは想定外。 |
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[めんようの里] |
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弘法山の斜面を下り終わった後、直進すると、R246に出た。 名古木宮前(ながぬきみやまえ)という交差点で、R246を横断し、さらに北上していく。
右手に赤い鳥居が見える。御嶽神社という石柱が立っていた。 神社には、説明板(秦野には、こういった説明板が結構、立っていて有り難い)があり、立止まって読む。
『祭神は、倭建之命(やまとたけるのみこと) 〜中略〜
創立年代は不詳だが、古伝に倭建之命東征の時、大樹の下に腰を据え、大山丹沢富士を一望されたことにより御嶽社を建立されたと伝えられる。〜以下略〜』 丹沢には、倭建命の伝説が多い。二ノ塔(足跡あり)、吾妻山、蓑毛など。そういえば、八菅神社でも日本武尊は、祭神のうちの一神として祀られている。 ....ここでは、「倭建之命」と書かれてあったが、古事記では「倭建命」、日本書紀では、「日本武尊」 |
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[御嶽神社] |
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住宅街を歩いていくと、石碑群を発見。(写真下左) 右端は、道祖神、その隣は、よくわからない。その隣は、庚申塔のようだ。 舗装路の上に鎮座している姿は、ちょっと違和感のある光景だった。でも、撤去されていないところが嬉しい。
その後、予想外の急坂を上っていくと、右手に意外な光景が広がった。
また、直ぐそばには、地蔵さんと馬頭観音の石像が。(写真下右) 今は、閑静な住宅街の道に過ぎないが、昔は、蓑毛へのメインルートだったのかもしれない。
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[舗装路上に石碑群] |
[お地蔵さんと馬頭観音] |
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さらに北上し、目的の蕎麦屋に到着。(11:45) 12時前に到着したくて焦っていたが、どうにか間に合った。 おかげで待たずに店の中に入ることができた。 (案の定、12時過ぎたら、あっという間に待ち行列となった)
三色せいろを注文。これは、御膳せいろ、十一せいろ、玄挽き田舎切りの三品。御膳せいろは、今が春なので、桜切り。 この三品が順番に出てくる。 最初は、桜切り。薬味をつけずに召し上がって下さいと言われたので、そのようにして賞味。 香りと冷えた蕎麦の歯触りを楽しむ。 続いて、十一せいろ、玄挽き田舎切りを味わう。いや〜旨い。 最後の締めにゆっくりと蕎麦湯を飲む。 ....ご馳走様でした。 |
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[丹沢そば 石庄庵] |
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本日の蕎麦屋1軒目をクリアし、次は、波多野城址に向かう。 来た道を使わず、西に続く道を進み、バス通りに出て、南下する。
東中学校の西側に進むと、一段、低い地形となる。その更なる西側は、小さな丘になっている。そして、その丘の上にも白梅が咲いていた。地図で見る限り、この先を登ったあたりが波多野城址なのだが、よくわからない。 だが、幸いにも道標を発見。目的地の波多野城址とある。 この道標の指す方向の小道を進む。(写真下左)
すると、ここにも白梅が花をつけていた。思わず撮影する。(写真下右)
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[波多野城址への道標] |
[白梅の香りがよい(振り返って撮影)] |
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白梅の香りを楽しんだ後、ひょいと登った先が、波多野城址だった。 畑のド真ん中に柵で囲まれ、1本の木(イヌマキのような葉だった)と石碑が立っていた。(写真下左) だが、正直言って、ここが城跡?というのが、率直な感想だ。
でも、作家永井路子氏は、「相模のもののふたち−中世史を歩く」(有隣堂 昭和53年)で、以下のように記している。
『秦野から蓑毛行きのバスで中丸橋で降りると、道の左側に城址の台地がある。その橋の手前を直左に折れる道があり、左側に中学校が建っている。その中学校と台地の間は、天然の地形を利用した空濠となっているが、残念なことに、私の訪れた昭和52年現在、その濠は一部埋め立てが始まっていた。』 この空濠を先ほど、歩いてきたのだ。 続いて、こう書かれてある。
『これは実に残念なことだ。なぜなら、このくらいはっきりと中世武士の館のおもかげを残すところはまずないからだ。わずかに残っている濠に降りて城址側に登ると、あたり一帯は落花生の畑になっている。斜面に刻まれた細い道を伝って台地の上に出る。舌状の台地の、いわば舌先にあたる部分に、波多野城址の碑がある。』
そもそもここが波多野城址としているのは、古く、「新編相模国風土記稿」にその記載があるという。 そこで調べてみたら、「新編相模国風土記稿」の寺山村条に
○城蹟 村の西境、金目川の傍、字小附に在、少し高き地にして、空塹(から堀)を廻らせし蹟あり、今畑(一町四、五段)となる、波多野次郎の城跡と言伝ふ と記載されていることがわかった。(引用文献:波多野氏と波多野庄 湯山学 夢工房1996年) ちなみに「新編相模国風土記稿」というのは、江戸時代の天保12年(1841年)成立した相模国の地誌である。
しかしながら、この波多野城址は、その後、下記のような展開となった。
『昭和62年3月小附の城跡がある東側谷戸田に沿って児童・生徒の通学路を拡張する工事にともない、秦野市教育教育委員会は発掘調査をはじめ、第7次をもって調査は完了した。その際に台地上も調査が行われたが、大規模な建物遺構や中世の遺物はほとんど検出されなかった。その結果、ここには城館があったとしても小規模で、本拠地の城館はその付近とされた。』
(引用文献:波多野氏と波多野庄 湯山学 夢工房1996年)
そんな訳で、残念ながら、現在、この石碑の立っている場所に城館があったとは、言い難いことが判明している。でも、江戸時代から言い伝えられていたことでもあり、ちょっと気になるところだ。
北側を眺める。(写真下右) 左手の木立の向こう側は、一段低くなって、ここからは見えないが、春岳沢から続く金目川が流れている。そういった意味で、確かに地形からすると、城館があったとしても不思議ではない。 大山のピークが見えるが、手前に送電線鉄塔が乱立している。直ぐ先に新秦野変電所があるためだ。日頃、丹沢山中では、送電線鉄塔に愛着がある(バリエーションルートでは、目印になり重宝。たまに地形図表記と実際の位置が異なる場合もあるが)ものの、ここ、波多野城址からの光景としては、ちょっと邪魔に感じてしまう。
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[波多野城址] |
[波多野城址から大山を眺める] |
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波多野城址を出発。南下していき、次の目的地金剛寺へ。
途中、バス通りにて立派な道祖神を発見。(写真左) このあたりは、寺や神社が多いが、こういった石碑も多く、史跡散歩としては、飽きさせない演出だ。
このころから、やたらとハナ水が出るようになった。やはり、花粉が結構、飛んでいるようだ。 |
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[道祖神(振り返って撮影)] |
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金剛寺に到着。(13:19) 入って、「あれっ」と思った。てっきり梅の木があるとばかり思っていたのだが、ここには梅の木は、なかった。でも、手許のポケット版地図には、この寺に訪問対象として印をつけている。 朝、出発前にざっと訪問先を調べたときに印をつけたと思うのだが、何でマークしたのかが分からなかった。 そんな訳で、とりあえず本堂で参拝する。意外に本堂は、新しい建屋だった。
結局、何でマークしたのか、分からないまま立ち去る。 |
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[金剛寺にて] |
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再びバス道路を進んでいくと、すぐ左に「源実朝公御首塚入口」という大きなカンバンを見る。 車道を渡り、左折する。 さて、首塚はどこだと、キョロキョロしていると、左の小さな公園の奥に立木が目立つ箇所があった。 あそこかなと、左折し、小さな公園の横を通り、歩いていくと、案の定、そこが首塚だった。 説明板を読む。少々長いが、下記に掲載。
『秦野市指定史跡
源実朝公御首塚(みしるしづか) 昭和四十六年七月二十六日指定
若くして非業の最期を遂げた征夷大将軍源実朝公の御首塚である。実朝は鎌倉幕府を開いた源頼朝の子で建仁三年二月七日に三代将軍になった人物で、歌人としても名高く、その私家集に「金槐和歌集」がある。
承久元年(1219年)正月二十七日、右大臣拝賀の帰り鶴岡八幡宮の社頭で二代将軍頼家の子公暁のために討たれた。その御首は行方不明になったが、三浦義村の家臣、武常晴が拾い上げ、波多野氏を頼ってこの地に葬ったと地元では伝えている。右手の五輪塔がその御首塚である。
武氏は当時、三浦郡武村(現在の横須賀市武山)の領主で、後に当地寺山に移り住んだといわれる。当家に伝わる系図では、実朝の御首を探し求めていた武常晴が偶然に当地で御首を発見し、この地に埋葬したと記している。
波多野忠綱は、実朝の菩提を弔うために、三十三回忌に退耕行勇を招き金剛寺を建立した。同寺には実朝公の木像、念持仏等が保存されている。
句碑の和歌は、「金槐和歌集」に載せられた実朝の一首であり、佐佐木信綱の筆によるものである。
ものいはぬ 四方のけだもの すらだにも あはれなるかなや 親の子をおもふ
石碑の除幕式に信綱は次の献歌をされた。
さがみ野や はだのの里に みたまやどり この里の幸 守りいまさむ
平成十二年十月 秦野市教育委員会 』
う〜ん、「武常晴が偶然に当地で御首を発見」という箇所が引っ掛かるな〜と思った。 どちらかというと、常晴は、鎌倉八幡宮付近で御首を発見し、ここまで運んできたという方が最もらしい感じがするのだが。
なお、この説明板を読んで、先ほどの金剛寺の謎が解けた。
地図上の金剛寺に印をつけておいたのは、この寺が実朝の菩提を弔うために建立された寺だったからだ。(でも金剛寺には、それらしき説明板もなかったような)
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[源実朝公御首塚入口] |
[源実朝公御首塚] |
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御首塚のすぐ隣に田原ふるさと公園がある。 この公園内の建屋内に本日2軒目の蕎麦屋、そば処東雲があった。 もう昼食時のピークは過ぎたと思っていたのだが、満員状態だった。このため、店に入る前に名前を用紙に書き、待つことになる。 だが、単独であることが幸いし、ものの3,4分で中に入れた。
カウンターの席に座り、天ざるを注文。 コストパフォーマンスの面では、いいのだが、混雑時に来てしまったので、なんだか慌しく食べるハメになってしまった。
....ちと残念。
それでも蕎麦湯は、しっかりと戴く。 |
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[そば処 東雲] |
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天ざるを食べた後、香雲寺に向かう。全く知らない寺だったが、秦野市観光協会のサイトで白梅の開花情報にこの香雲寺が載っていたので、急遽○印をつけた寺である。
ちょっと距離があるので、地図を見ながら歩く。歩いているうちにハナ水が出てくるようになる。花粉症だ。相当、飛んでいるようで、ティッシュが離せなくなってしまった。
車道が山にかかり、登りとなる。香雲寺らしき建屋が見えるところで、手前に満開の梅林と出会う。思わず、デジカメ撮影。(写真下)
だが、これからがいけなかった。寺の入口が見つからない。どうも寺の裏手に居るようだ。結局、来た道を引き返し、南側の道から香雲寺へと向かった。 |
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[香雲寺奥の梅林] |
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香雲寺の手前で八幡神社を参拝。実は、その前に東田原神社にも立ち寄り、参拝している。 本当にここは、神社・仏閣の多い地域だ。
右手に石柱を発見。香雲寺と書かれてある。(写真下左) ここが入口かと、右手の参道を歩いていく。 「おお、これは!」
思わず、立止まって撮影。
秦野市観光協会のHPから香雲寺のページを見ると、「香雲寺は、1564年(永禄7年)に大藤政信(おおふじまさのぶ)が羽根村の春窓院を移して再興したもの」とある。歴史のある古刹なのだ。だが、目の前に現れた香雲寺の本堂は、金剛寺と同様、新しい建屋のイメージだった。真っ白い壁の印象が強かったせいかもしれない。近代的な感じがして、どうも古刹というイメージからすると、ちょっと違和感を感じてしまう。
秦野には、このような白梅の寺があったり、他にもチューリップで有名な泉蔵寺(4月中旬頃が見頃)や、しだれ桜で有名な白泉寺(まだ行ったことがないけど)もある。花関係だけでも意外に見るべきポイントが多い。秦野市観光協会のサイトだけでなく、秦野の観光パンフレットなどにもドンドンこういった場所を取り上げてもいいのではないかと思う。
....少なくとも歴史と花が好きな観光客には、ウケると思うのだが。 |
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[香雲寺入口] |
[香雲寺のお地蔵さん] |
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香雲寺を後にして、駅方面に向かう。 いよいよ最後の訪問場所となった、ジョイフルタウン秦野のイオンにある蕎麦屋に向かう。 最短距離を進むべく、地図とにらめっこしながら歩いていく。
なんと、車道が終わり、階段になってしまった。ポケット版の1/30000地図では、階段のようには記載されていなかったので、ちょっと慌てる。
. ....徒歩でよかった。
階段の下り口から、ちょうど前方に目的地の巨大なビルが見えた。かつては、日本たばこ産業(旧日本専売公社)秦野工場だった所だ。それが、今では大規模なショッピングセンタ−となっている。(写真下) |
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[階段の下り口にて] |
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ようやく今日、3軒目の蕎麦屋に到着。 総本山 丹沢そばという看板が掲げてあった。
....以前は、こんな名前でなかったような。
店の入口の位置が変わっていた。昔は、外から直接、店に入れたのだが、今では、一旦、イオンのドアから建屋の中に入り、そこから店に入るようになっていた。 ここでは、2色せいろを注文。 う〜ん。やはり、旨い。香りと喉越しを味わう。 あっさりと食べてしまった。 時間的に空いていたので、落ち着いて食べることができた。最後に蕎麦湯をゆっくりと飲む。 |
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[総本山 丹沢そば] |
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イオンからは、直接、駅を目指す。だが、直線ルートで駅に向かう道は、ないので、左に曲がり、右に曲がったりして、水無川に出た。 川を渡れば、もうそこは、秦野駅前である。 すでに日がだいぶ傾いていた。
16:18秦野駅に戻る。 胃袋の中は、蕎麦だらけの状態で、帰路についた。 |
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[秦野駅に戻ってきた] |
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今回は、白梅が予想外の展開でした。特に寺院とか特定のエリアでなくても、白梅が咲き乱れ、秦野には、結構白梅が多いことを知りました。 蕎麦の方は、予想通り、どれも美味しく戴きました。そのうちまた、違った店歩きをしてみたいと思います。
....腰痛が続くようであれば。
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※山行時間には、撮影時間を含んでおりますので、ご注意下さい。
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