トップページ山行リスト(日付)>大峰・富士居山・旗立松_記録20201229


大峰・富士居山・旗立松
 山行日
2020年12月29日(火)    晴      単独行
 コース
半原(9:11)〜(9:53)大峰(10:11)〜(10:41)向山(10:50)〜(11:52)富士居山(12:07)〜(12:37)旗立松入口(ゴルフ場入口)〜(12:55)旗立松(13:47)〜(14:01)旗立松入口〜(14:32)浅利明神(14:41)〜(14:59)上三増
 今回は、2020年ラスト山行として、半原の東側、大峰・向山・富士居山・旗立松に行ってきました。調べましたら、大峰〜富士居山は、2007年12月以来、旗立松は、2007年3月以来ということで、ほぼ13年振りの訪問となりました。
 詳細は、以下をご覧下さい。


 2020年最後の山行は、低山で締めようと思い、最近、全く訪問していない大峰〜富士居山を歩いてみようと計画。
 小田急線本厚木にて下車し、8:10発半原行のバスに乗車。
 バス車内は、徐々に乗客が減っていく。登山姿の他の乗客は、愛川大橋にて4人全員が下車してしまった。結局、登山姿で終点まで乗った乗客は、私だけだった。
[半原バス停にて]

 半原バス停を9:11に出発。
 大峰初訪問の時(2007年12月)は、登山口までのアプローチで、道に迷った記憶がある。そのため、今回は、左手には、東丹沢登山詳細図を持って歩いている。お蔭で、9:20、迷わずに道標に到着。(写真下)
 だが、肝心の道標は、「大峰」、「登山道」、「宮ヶ瀬ダム方面」という文字以外、もはや何と書いてあるか判読不能になっていた。
[大峰への登山口]

 民家の間を通り抜け、小さな水路のような小川を渡り、大峰の斜面に取り付く。ここから、登山道は、いきなり急登となる。(写真下)
 落葉のせいで、靴が滑りそうだ。ゆっくり一歩一歩、着実に踏んでいく。
 登っている途中で暑くなり、耳当てを外す。
[急な登りが始まる]

 9:53、大峰山頂に到着。
 13年振りだが、山頂光景は、全然、変化していないと思えた。相変わらず、周囲の視界は、広がらない。ただ、唯一違うのは、「大峰」と書かれた山頂標識。経年変化で、文字が目立たなくなっていた。
 ....それと、愛川町の観光キャラクター「あいちゃん」のカンバンが付いていた。
 ちょっと、長めの休憩に入る。
[大峰に到着] [2007年12月にて]

 10:11、大峰を出発。
 ここからは、比較的フラットに進んでいく。やがて、登りとなり、小ピークを越えた後、ふと左を見ると、樹林帯の中に何か石祠のような物が見えた。(13年前は、全く気がついていなかった)
 「なんだろう。」
と思い、登山道を外れ、左折していく。すると、緑のカーペットが見え、その先が、北側の斜面に向かっていた。その先には、何か建屋が見える。(写真下左)
 「....」
 確か北側は、朝日寺(清正光)がある筈で、その最上段の建屋かなと思えた。
 振り返って、尾根筋を見渡すと、緑のカーペットが続き、その左右に石祠や石碑のようなものが続いている。カーペットを進んでみると、最後は、七面大天女という石碑にたどりついた。(写真下右)
 よくわからないが、なんだかパワースポットのようで、参拝して後にする。

※帰宅後、調べてみると、七面大天女は、日蓮宗系に関連する女神だと知った。ということは、この尾根筋の場所は、現在の「清正光」以前に関連するものなのだろうか。
[朝日寺方面を見下ろす] [七面大天女]

 尾根筋の登山道を進んでいき、10:41、向山山頂に到着。
 人工物の電波塔が立っている点で、大峰と違うが、大峰同様、見晴らしは、よくない。
 ここにも山頂標識「向山」が立っている。ちなみに、この標識には、「むこうやま」とルビが振ってあるが、東丹沢登山詳細図では、「Mt.Mukaiyama」と記載されている。
 また、山頂標識には、標高375.2mと記載され、ここが、本日山行での最高地点だ。だが、詳細図では、325.2と記されている。いったいどっちが正しいのか、詳細図の等高線を辿ってみると、明らかに350m以上あるので、詳細図の表記は、誤りだと気がついた。
 そんな訳で、ちょっと詳細図とにらめっこしていた後、出発する。 
[向山にて]

 向山からは、どんどん下っていく。小さな鞍部を通過後、少し登った後、再び下りとなる。左右は、]植林帯で、全く遠景は見えない。
 ようやく下り終わったかなと思ったとき、右手を見ると、宮ヶ瀬ダムが樹林の間から見えた。
 だが、遠景は、靄っていて、今日は、イマイチの光景。今日は、ザックに中型カメラを入れてきたのだが、これでは、写欲が湧かなかった。
[宮ヶ瀬ダムが見えた]

 さらに少し下っていくと、広い鞍部に出た。(写真下)
 ここは、十字路となっており、何となく見覚えのある道標が立っていた。そうそう、ここで13年前、ハンターと出会ったことを思い出した。右手の隠川方面に下るルートは、等高線間隔が狭く、物凄い急斜面であることを前回から知っている。それゆえ、いつか下ってみたいと思っていたが、もう13年も経ってしまった。
[十字路(振り返って撮影)]

 十字路を直進し、緩やかに登っていく。
 その後、一面、落葉の絨毯のような斜面を下っていくと、分岐点道標が見えてきた。(写真下)。右手は、愛川橋バス停・老人センターと書かれてある。詳細図を見ると、ここも、隠川方面に下るルートで、一部は、急斜面の下りとなっている。ちょっと気になるルートだ。
[老人センター分岐点にて]

 小ピークを過ぎ、下った後、再び緩やかな登りとなったところで、突如、本日初めて、単独男性とすれ違った。だが、ちょっとバツが悪かった。というのは、誰もいないと思い、こちらは、一人、気分よく歌いながら歩いていたのだ。まあ、「旅の恥は掻き捨て」と思い、割り切る。
 ....クマ避けのつもりだった。ちょうどサビの部分だったので、絶対、聞こえた筈。

 11:52、富士居山頂上に到着。ここも、大峰、向山同様の山頂標識が立っていた。ここは、他のピークと異なり、右手に樹林の間から仏果山方面の稜線が見えていたのだが、いったいどのあたりが見えているのか、サッパリ分からなかった。(霞んでいるので、ここも写欲は湧かず) 
 
※帰宅後、カシミールで調べたら、仏果山から八州ヶ峰と続く稜線だったことが判明。
[富士居山にて]

 富士居山から下って、車道に出る手前で、右手に茶畑が広がった。直線的な構図が印象的で、思わず何枚もデジカメ撮影。
[右手の茶畑を眺める]

 12:24、車道に出た。(写真下)
 実は、この撮影の前、階段下に一人の男性がバイクで出発するところだったので、挨拶したのだが、何と、先程、富士居山の手前で、すれ違った男性だった。まさか再会するとは思わなかったので、ちょっとビックリ。再び、バツの悪い思いをしてしまった。
 ....事実は、小説より奇なり。
[車道に出てきた(振り返って撮影)]

 ひたすら車道を歩き続け、旗立松の入り口(=ゴルフ場入口)までやってきた。(写真下)
 以前は、こんなにゴルフ場のカンバンが大きくなかったような気がした。その右隣に、旗立松の立札が立っている。この立札があるので、堂々とゴルフ場内に入っていけるのだ。

※後日、過去の画像を見たら、以前は、旗立松の立札がゴルフ場カンバンの左(つまり、丁字路の角寄り)にあったのだが、車で来るゴルファーにとって見落としやすかったのだろうか。現在は、角寄りにゴルフ場カンバンが立ち、旗立松の立札は、奥(右)に移設されていた。
[ゴルフ場に入る]

 ゴルフ場の中の車道を進んでいく。旗立松への道標が立っているので、道に迷うことは、ない。クラブハウスの駐車場手前で、左の細い舗装路に移り、坂を登っていく。
[正面に旗立松]

 最後は、登山道になった。登山詳細図では、標高309mとある。富士居山(253m)より高いのだ。このため、途中で何度か立ち止まり、息を整えながら登っていく。
 12:55、旗立松に到着。
 案の定、誰もいなかった。
 登りの途中に立っていた説明板によれば、
『愛川町指定史跡 三増合戦場跡
 旗立て松の由来
 永禄十二(1569)年十月六日、三増の山野で甲斐の武田信玄が率いる軍と小田原の北条氏康の軍とが戦った。旗立て松は、この三増合戦のおり、信玄が大将旗を立てたと伝わる跡である。(以下略)』

とある。
 後日、合戦内容について、久しぶりにネットで調べてみたら、新しい記事がいくつか見つかった。合戦の経緯を詳細に記載したものもあり、なかなか興味深い。
[旗立松にて]

 ここで、中型カメラを取り出し、撮影開始。
 だが、ここでも遠景は、残念ながら、霞んでよく見えない。前方に工場らしき建屋が集まって見えるが、おそらく神奈川内陸工業団地だろう。ちょうど中津川と相模川の間で、平野が続いている所だ。もっと先の方まで見渡せたらなぁと思いながら、シャッターを押す。
 遅めの昼食をとった後、下山開始。
[旗立松からの眺望]

 旗立松から来た道を戻り、ゴルフ場入口まで戻った後、左折し、車道を進んでいくと、ハイキングコースの立札に出合った。(写真下)
 この案内に従って、浅利明神に向かう。
[ハイキングコースの立札]

 先程の立札から舗装路を歩き続けること、13分。次のハイキングコースの立札を見掛ける。ここには、「浅利明神・墓所入口」という石柱もあった。ここで、左折する。 
[ハイキングコースの立札と石柱]

 道は、小高い丘へと続いていた。浅利明神は、てっきり平地にあるのかと思っていたが、そうではなかった。
 左手にゴルフ場が見える。スマホの地図で確認したら、先ほどの旗立松のあった東名厚木CCだった。そのゴルフ場の東端に浅利明神があったのだ。
 14:32、浅利明神到着。(写真下)
 小さな建屋だ。中を覗くと、墓石のような物が見えるが、詳細は、分からない。
 少し戻って、説明板を読む。(以下)
『愛川町指定文化財 史跡 三増合戦場跡
   浅利明神と浅利墓所
 甲斐源氏の後裔。浅利右馬助信種(あさりうまのすけのぶたね)は武田方の侍大将で、二十四将の一人にかぞえられた勇武の人と伝えられています。
 史書によると、永禄十二(1569)年十月の三増合戦の時、信種は武田軍の左翼にあって奮戦していましたが、小田原方北条綱茂配下の放った銃弾を受け、この丘の下で戦死しました。信玄は、信種の死を悼み、墓をつくって篤く供養しました。
 その後、寛政元(1789)年、村人が墓のわきを掘ったところ小さな骨壺がでてきました。人々はこれを信種の遺骨として、墓地の北にまつり直し、浅利明神として尊崇、以来、除疾、除災等の験あらたかな神とし、祈願成就の際、木太刀を奉納する習わしが今に伝わっています。
     昭和四十八年十月     愛川町教育委員会』

※帰宅後、武田二十四将をネットで調べてみたら、諸説あり、二十四将と言いながら、実際には24人以上の武将が抽出されていることが分かった。だが、それでも、浅利信種という名は、見つけられなかった。名前が違うのかなと思い、1569年が没年となる武将を探したが、それでも見当たらなかったのだ。
[浅利明神]

 浅利明神から南東側を見下ろす。(写真下)
 北条綱茂配下の銃弾は、東側の山の斜面の方から放たれたということを聞いたことがある。いったい、どのくらい信種と離れていたのだろうか。そんなことを思いながら、しばし、見入った。
[浅利明神からの眺め]

 再び、石柱のあるところまで戻った後、スマホの地図で、ルートを確認。
 14:57、バス通りの県道に出たところで、スマホのgoogleマップにて、上三増バス停のバスダイヤを調べたら、15:14と表示された。これなら、十分間に合うと、ゆっくり歩いていく。
 14:59、上三増バス停に到着。

 バス停のダイヤを見ると、平日の火曜日であれば、本来15:15なのだが、年末ということで、今日は、休日ダイヤとなっていた。そして、googleマップは、まさにその休日ダイヤの15:14を表示していたことを知った。
 ....Googleの正確さに痛く感動。

 乗客は、私だけで、厚木バスセンター行きのバスは、定刻通り、15:14、出発した。
 [上三増バス停にて]


 今回は、久々に大峰〜富士居山・旗立松を歩き、最後に初訪問の浅利明神に行ってきました。以前に比べて、サイトや現地の案内板などが充実しており、愛川町が観光に注力しているのが、よくわかりました。愛川町では、まだ歩いていない低山や、上述の隠川ルートなどがありますので、今後もっと歩き回りたいと思っております。



※山行時間には、撮影時間を含んでおりますので、ご注意下さい。