トップページ>山行リスト(日付)>浅間山・丸山・城山_記録20211009
2021年10月9日(土) 晴 |
同行者:「山の会2」 メンバー 12名 |
山北(9:14)〜(9:26)河村城址歴史公園(10:27)〜(10:37)浅間山(10:47)〜(11:56)丸山(道路最高点)(12:06)〜(12:56)山北(13:23)=(御殿場線)=(13:27)谷峨(13:32)〜(13:49)清水橋〜(14:32)城山(14:45)〜(15:28)清水橋〜(15:45)谷峨 |
久しぶりに「山の会2」の山行が再開されました。今回は、山北駅付近と谷峨駅付近の低山歩きです。まずは、山北駅から出発しました。
詳細は、以下をご覧下さい。 |
緊急事態宣言が10月になって解除され、久々の「山の会2」山行となった。今回は、山北駅、谷峨駅周辺の低山をゆっくりと登頂する計画だ。何せ半年ぶりの山行なので、ゆるゆるのコースとなった。
山北駅前に9:00集合し、ミーティング等の後、9:14、出発する。 |
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[山北駅を出発] |
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跨線橋を渡り、駅の反対側にある「さくらの湯」の前を通った後、左折する。
R246の下をくぐり抜け、盛翁寺で左折し、坂を登っていくと、やがて、曲がりくねった登り坂となる。
9:26、駐車場の前で小休止。(トイレあり)。
ここには、河村城址歴史公園の案内図が立っていた。(写真下)
結構、広い公園だな〜と独り言。
....長年、丹沢を歩いてきたけれど、河村城址は、未訪問だった。
河村城については、下記の通り。....ちょっと長いけど、記載
『河村城
・概要
平安時代末期に築城され、相模・甲斐・駿河三国の境界線が交差する要衝の近くに築かれた山城である。
・歴史・沿革
河村城は平安時代末期に藤原秀郷の流れをくむ河村秀高によって築かれたとされる。
建武の新政・南北朝時代に入ると、河村氏は新田氏に協力し南朝方につき、北朝方の足利尊氏と対峙したといわれ、1352年(南朝:正平7年、北朝:文和元年)から2年間、河村秀国・河村秀経らは新田義興・脇屋義治とともこの城に立てこもり、畠山国清を主将とする足利尊氏軍の攻撃をしのいだとされる。しかし、南原の戦いで敗れ落城し河村一族の多くは討死し、新田義興・脇屋義治は中川城を経て甲州に逃れたとされる。
その後は、この城は畠山国清や関東管領上杉憲実を経て、足利持氏の属将、大森憲頼(氏頼の弟)の支配するところとなる。
戦国時代に入ると後北条氏の支配を受けるようになった。元亀年間(1570年(元亀元年) - 1573年(天正元年))には甲斐国の武田信玄の侵攻の際に補強され、その後、周辺の諸城とともに後北条氏と武田氏の間で争奪合戦があったとされる。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐で、この城は落城し廃城となった。』
(出典:Wikipedia)
補足)
新田義興:新田義貞の次男。
脇屋義治:脇屋義助(義貞の弟)の子。新田義貞の甥。 |
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[階段を登っていく] |
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駐車場からは、道幅が狭い歩道となった。さらに進んでいくと、階段状の登り道となり、分岐路に出合う。右手に直登の階段が現れる。直進は、迂回路で緩やかな登りだったが、距離が長くなるのが分かった。ここは、直登階段を選択。(写真下)
....でも、次の直登階段は、パスして迂回路を選択。やはり、直登はキツい。 |
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[階段を登っていく] |
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登り切った後、前方を見ると、真っ平な草地が広がっていた。緑一面の広場となっており、眺めているだけでも心地よい。ここが、先程の案内板にあった本城郭のようだ。
※郭(くるわ)とは、尾根の高い部分を削り、その土で低い部分を埋めた平場
右手奥には、大きな石碑が目立つ。近づいて見ると、「河村城址碑」と書かれてあった。
今回は、ここから東の方向に進んでいく。 |
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[平らな草地] |
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本城郭から蔵郭、近藤郭、大庭郭と進む。郭の間には、人工的に切断した堀切がある。なるほど、城らしいレイアウトだ。
広々とした大庭郭の中にポツンと展望台があった。「展望あずまや」と呼ばれ、2019年に完成したとの事。その展望あずまやに上がって、西側を振り返る。(写真下)
....なんだか、ゴルフ場のよう。 |
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[展望あずまやから振り返る] |
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その後、この辺りにある筈の三角点を探す。
一面、草地なので、簡単に見つかると思ったが、意外に時間がかかった。GPSという最終武器でエリアを絞り込んだのだが、それでも目立たなかったのだ。
....この三角点探しは、楽しみの一つ。 |
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[三角点を見つけた] |
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さらに東へと進む。
相変わらず、緑の草地が続いている。右手には、箱根の山々(明神ヶ岳から金時山まで)の眺めが広がる。 |
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[箱根の山々] |
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左後方には、大野山が姿を見せていた。この方向から眺める大野山は、東西に長く、新鮮なアングルだ。
また、右前方には、曽我丘陵や酒匂川河口あたりの平野が一望できたのだが、逆光気味で、残念ながら撮影には不適だった。 |
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[大野山の眺め] |
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大庭郭から大庭郭張出を通り、さらに東へと進んでいくと、車道に出た。
その車道をテクテクと歩いていくと、道が二分する。(写真下)
地図(今回は、地理院地図を指す)で確認すると、右手が今回の目的地の一つ、浅間山(標高248m)へ通じる道だと分かり、そちらに進んでいく。 |
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[右の坂を登っていく] |
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もうすぐ頂上だと言う所で、左右に携帯電話用の電波塔を見かける。
最高地点に到着すると、赤い鳥居が立っていた。(写真下)
ここが浅間山の頂上のようだが、特に山頂標識は見当たらなかった。
残念ながら、展望が無く、木々に囲まれた山頂だった。 |
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[浅間山頂上にて] |
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分岐点まで戻り、さらに東へと進む。
すると、坂道を下る途中で、東側の視界が広がり、酒匂川流域の平野が見渡せた。少し、北側に視点を移動すると、これから訪問予定の丸山が眺められ、その山頂には、白いビルが建っていた。(写真下) |
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[丸山を望む] |
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浅間山の斜面を下って、小田原市と山北町を結ぶ県道74号線を渡り、再び登り坂を歩く。この先が丸山だ。
舗装路歩きが延々と続く。(写真下) |
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[丸山に向かう(振り返って撮影)] |
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山頂に近づいていくと、ゲートが現れた。だが、ゲートは、半開き状態だった。ゲートの看板には、「夜間は施錠しますので立入りはご遠慮ください。株式会社トヤマ」と書かれてあった。
この先、会社の敷地内なので立入禁止かと思ったら、上記のように記載で、かつ、今は、昼間ということで、入らせてもらうことに。
地図を見て、頂上建屋を囲んでいる外周道を反時計回りに進む。我々以外、人影は、全く見られない。先程、頂上に見えた白いビルに近い箇所を歩いているのだが、樹林が繁っていて、全く見えない。
やがて、右手には、樹林の間から、高松山頂上が見えた。(写真下左)
ここで、地図を取り出し、確認すると、丸山頂上(252m地点)は、やはり、建屋エリアにある事が判明。この辺りが、外周道で、頂上に一番近い場所かなと思っていたら、左手にビル通用口に向かう道が分岐していた。分岐道入口には、通用口の案内板と「ここから先は、敷地内につき関係者以外立入禁止」の小さな立札が立っている。(写真下右)
ということで、この分岐道入口が進入可能な丸山最高地点と判断し、小休止とした。
この地点と丸山頂上とは、周囲を見る限り、それほど高度差はないと思えた。
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[樹林の間から高松山を望む] |
[通用口の案内板] |
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丸山最高地点からは、登りルートとは違ったルートで、極力下っていき、山北駅に戻ってきた。(12:56) ここで、御殿場線の発車時刻まで、遅めのランチタイムとした。 |
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[山北駅に戻ってきた] |
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13:23、山北から御殿場線(沼津行き)に乗車し、谷峨に13:27到着。
13:32、谷峨を出発。ここから城山(標高347m)を目指す。
右手前方に大野山の頂上付近が見えている。見慣れた大野山の姿だ。 |
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[右前方に大野山を見ながら谷峨駅を出発] |
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R246に出ると、正面に目的の山、城山が見えてきた。
そんなに時間は、かからないだろうと、この時は、そう思っていた。 |
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[R246に出たら城山が見えてきた] |
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R246沿いに駿河小山方面に歩いていき、右手に分岐点に到着。(写真下)
ここが、城山への登山口だ。
右折して坂道を登っていく。 |
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[R246を右折する(振り返って撮影)] |
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坂道が結構、曲りくねっていて、頂上に到着したのは、14:32。谷峨からちょうど1時間経っていた。
頂上付近に説明板が立っていた。
『河村新城跡
新城は、小田原北條氏が甲駿国境に築造した重要な出城(境目の城)で、たびたび争奪戦が繰り返された城である。永禄12年(1569)武田信玄の小田原城攻めの際は、湯ノ沢城・足柄城など周辺の九城とともに落城した記録があるほか、天正9年(1581)には、武田勝頼の攻撃にもあっている。さらに天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原城攻めにあたっては、北条氏の江戸城代であった遠山左衛門尉景政が守備していたところを、徳川家康配下の甲州勢が押し寄せ、雑兵31人が討ち取られて落城し、その後廃城になったようである。(以下略) 平成14年3月 山北町教育委員会』
今回は、河村城址から始まり、河村新城跡で終わるというコースだったかと、ちょっとビックリ。
....城山という名だったので城跡があることは想定していたが。
説明板の裏手は、樹木もなく、盛土のような状態で、立入禁止となっていた。山頂付近が何でこんな状態になったのか、後日調べてみたら、下記の事が判明。
『新東名高速道路建設事業に伴い、2018年12月から2021年3月まで公益財団法人かながわ考古学財団が発掘調査を行った。発掘調査は、河村新城跡が所在する標高347mの「城山」の約3分の1にあたる西側の約2万平方メートルの範囲で実施された。』 (山北町HPより)
なるほど、樹木が無い状態になっていたのは、発掘調査跡だと分かった。
調査結果の資料が無いかと探してみたら、かながわ考古学財団サイトを見つけた。そこには、下記のような事が書かれてあった。(一部抜粋)
『山頂部を中心とした掘立柱建物群、堀、城内に通じる橋や門跡が検出されました。山頂の主郭から搦め手(裏口)付近までが明らかにされつつあります。出土遺物はかわらけ、瀬戸・美濃や常滑窯製のすり鉢や壺・甕などの陶器、染付皿などの舶載磁器、銅あるいは青銅製の鉄砲玉といった食膳具、武器など多彩です。後北条氏の城館構造を知る上で重要な成果が得られました。』 |
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[城山頂上付近にて] |
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城山から下っていく途中、茶畑の向こうに大野山と新東名工事のタワークレーン4基が望めた。大野山から、こちらまで、橋を架けるのだろうか。 |
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[大野山と新東名工事のクレーン群] |
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R246まで戻り、再び谷峨まで戻っていく。
その途中、サルの集団に遭遇。そういえば、以前も大野山からの帰り、酒匂川を吊り橋で渡ったところで見かけたことを思い出した。駅周辺の住宅地が近いが、いったい何匹いるのだろうか。 |
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[サルの集団に遭遇] |
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15:45、谷峨に到着。
城山は、近い山と思っていたのだが、意外にも坂道が続き、時間がかかってしまった。 |
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[谷峨駅に戻ってきた] |
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今回は、久しぶりの山という事で、ゆるゆるな山行かと思っていましたが、意外にもタフな山行となりました。
....舗装路歩きばかりで、足の裏が痛い。
河村城址の真っ平な草地やそこからの展望、城山からの大野山の光景などが特に印象的でした。駅近くの山という事で、なかなか登ろうとしなかったエリアでしたが、意外にも景色が新鮮で、非常に楽しめました。特に河村城址歴史公園は、時間をかけて、もう一度じっくりと歩き回ってみたいと思っております。 |
※山行時間には、撮影時間を含んでおりますので、ご注意下さい。
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