トップページ山行リスト(日付)>大山_記録20230124


大山
 山行日
2023年1月24日(火) 晴       同行者:「山の会2」メンバー 3名
 コース
大山ケーブルバス停(8:09)~(8:26)大山ケーブル駅~<男坂>~(9:36)下社(9:44)~(10:55)16丁目(11:08)~(12:13)大山(12:54)~(14:14)見晴台(14:21)~(14:49)二重滝(14:54)~(15:08)男坂・女坂分岐点~<女坂>~(15:25)大山寺(15:30)~<女坂>~(15:51)大山ケーブル駅~(16:12)大山ケーブルバス停
 今回は、「八菅修験春の峰三十行所を訪ねる」の7回目です。
 対象となる行所は、
  (29)大山寺本宮雨降山(修) (30)大山寺白山不動(修) 
    (修):特別な修行や祈祷を行う場所
ということで、位置的には、現在の阿夫利神社本社と阿夫利神社下社となります。 
 詳細は、以下をご覧下さい。
 なお、今回は、途中で嬉しいことがありました。


 まだ途中の行所を全部を訪問していないので、全行所を歩いた訳ではないが、歩ける場所は、早めに訪問しようと考え、今回、八菅修験者の道として、大山寺本宮雨降山(大山頂上)からゴールである大山寺白山不動(今の下社)を歩くことにした。
 この2か所を結ぶルートは、現在で言う、表参道ルート、見晴台経由ルート、かごや道ルートなどが考えられる。今回は、下社から表参道を登り、頂上からは見晴台経由で下り、下社に戻ることとした。
 大山ケーブルバス停を8:09、出発する。(写真下)
[大山ケーブルバス停を出発]

 ケーブルカーは使用せず、男坂・女坂分岐点に到着。
 今回は、男坂を登っていく。
[男坂・女坂分岐点]

 常緑樹が多いので、緑色が目立つ。
 現れる石段は急で、かつ手摺がないので、バランスを崩すと危険。
[男坂を行く]

 ハアハア言いながら登っていくと、何やら動くものが。
 振り返ってみたら、シカが2頭、食事中だった。この2頭は、人間慣れしているようで近づいても逃げようとしなかった。ということで何枚も撮影。 
[シカ2頭と遭遇]

 9:19、八大坊上屋敷跡に到着。(写真下)
 説明板には、下記説明あり。
 『八大坊 上屋敷跡
 別名を西楽院(さいらくいん)という。大山を治めていた別当(長官)の住居であり、供僧(くぞう)十一坊・脇坊六坊・末寺三・御師三百坊の惣領で、大山の運営および事務を司っていた。 青専研』

 大山寺の歴史を調べてみると、884年、第5世 安然和尚は、大火で焼失した伽藍を再興し、大山は、華厳・真言・天台の三宗兼学の道場となり、霊山として栄えていたようだ。
 なお、下屋敷は、現在の社務局の場所にあった。
 ちなみに青専研とは、大山観光青年専業者研究会を指す。余談ながら、毎年春に行われる「大山とうふまつり」は、この青専研が企画したことから始まっている。
[八大坊 上屋敷跡]

 9:36、下社に到着。
 『明治初期の廃仏毀釈・神仏分離で、大山の廃仏と神社化が図られ、大山中腹にあった不動堂は破却されて、現在の大山阿夫利神社下社となった。』 (Wikipedia「大山寺」より抜粋)
 ということで、この辺りは、修験者がいた頃の江戸時代の面影が全く消えてしまっている。
 今回は、拝殿の右手にある地下道に入っていく。
[下社に到着]

 地下道に入ると、大山名水と書かれた立札があり、鳥居の手前から水が出ている。
 さらに奥に進むと、木太刀が展示されてあった。
 今まで、何度かこの地下道には入っているが、これには全く気づいていなかった。
 『江戸時代に「源頼朝公が武運長久と必勝を祈願して大山に自らの太刀を納めた」という逸話を民衆が真似し、真剣に代わり木太刀を奉納した事が始まりとされる独特な風習。現存する最長のものは6メートルにもなります。』 (Webサイト:「大山阿夫利神社」から引用)
 木太刀をよく見ると、年号が書いあり、一つは、文政と読める。(写真下左) もう一つは、天明だ。(写真下右) どちらも江戸時代のものであることが分かる。
[展示されている木太刀1] [展示されている木太刀2]

 さらに進むと、酒瓶が展示されてあった。
 な、なんと大きな酒瓶だろう。これは、一升瓶どころではない。今まで見た事のない超ビッグサイズの瓶だ。ちなみに(写真下)で、一番小さい瓶(左から2番目)が300mlだ。それ以外は、残念ながら、容量の表記が見つからなかった。
[巨大な酒瓶]

 地下道を出て、いよいよ表参道に向かう。
 登拝門の入口に一丁目の石柱を発見。今回、4人の目があるので、見落とすことはないだろうと、この石柱を一丁目から二十八丁目まで全部撮影することを決めた。
 ....単独行の時、登りや下りで何度か実行したが、いつも完遂ならず。
[一丁目の石柱]

 登拝門を通り、急な石段を登っていく。(写真下)
 初めて大山を訪れる人は、まずこの急な石段に驚くだろう。実は、二丁目の石柱が、この途中左にある。こういった場所にあるので、いつも単独だと、見落としてしまうのかなと思った。
[急な石段を登る]

 10:55、十六丁目に到着。ここは蓑毛方面との分岐点。
 十六丁目の石柱の他、大きな石碑が立っている。説明板には、以下のように書かれてある。
 『十六丁目追分の碑
 この碑は、一七一六年に初建され、総高三米六十八センチメートルもあり、江戸期の大山信仰の深さをしめしている。この石は麓から強力たちが担ぎあげた。  大山観光青年専業者研究会』
[十六丁目に到着]

 11:13、十八丁目の石柱を撮影。
 「あれっ、十七丁目を飛ばした!」と、思わず叫んでしまった。すると、「すぐ下に十七丁目がありましたよ。」と、メンバーからの指摘。
 今回こそ、全部撮らないと、いつまでも全部撮影できないと思い、「近いなら戻って撮ってきます。」と一人戻ることにした。
 その時、岩だらけの道を下っていく。
 ...
 何かヘンだなと思ったが、時間が経つにつれて、それが分かってきた。
 なんと、右膝(正確に言うと、膝裏の脹脛の付け根部分)が全く痛くないのだ。
 今までなら、このような岩がゴロゴロして段差のある下りならば、右膝が痛くなるのだが、全く痛くなかった。もっと正確に言うと、右膝の痛みが出る前の右膝に戻っていた。
 な、なんで?
 これは、一時的なものかもしれない。結論は、頂上からの下りを見てからと考えようと、まずは、十七丁目の石柱を撮影する。(写真下)
[引き返して撮影した十七丁目石柱]

 11:24、富士見台と呼ばれる二十丁目に到着。ここでメンバーに追いつく。
 残念ながら、富士山は、雲に隠れ見ることができない。富士山手前の三ノ塔の一部だけが見えていた。(写真下)
[富士見台(二十丁目)]

 11:56、二十六丁目の石柱に到着。ここには、「来迎谷」と石柱に書かれてある。(写真下)
 来迎を調べると、『来迎(らいごう、浄土教諸宗では、らいこう)とは、仏教において、念仏行者の臨終の際に阿弥陀三尊が25人の菩薩と共に白雲に乗ってその死者を迎えに来て極楽に引き取ること』(Wikipediaより引用)
 阿弥陀如来は、西にある極楽浄土から迎えに来ると言われているので、本来、西側が開けている場所ではないかと思えるのだが、この石柱が立っている場所では、西側はよく見えない。むしろ、東側の方がよく見える。
 ここの来迎谷の「来迎」の解釈として、ご来光(日の出)を意味しているのだろうか。
 ....そんなことはないかと思うが、設置場所がイマイチ。
[二十六丁目の石柱]

 12:09、前社手前の鳥居に到着。ここで、二十八丁目の石柱を撮影。(写真下)
 ようやく28の石柱を全部撮影できて満足。
 ふと周囲を見渡すと、地面に薄っすらと雪が残っていた。
[前社手前にて二十八丁目の石柱]

 12:14、本社を参拝。本社横に掛かっていた温度計は、マイナス1℃を指していた。
 いつものように御神木を撮影。(写真下)
 手前のベンチが撤去されたおかげで、撮影し易くなったのは、ありがたい。
[頂上の御神木]

 その御神木の下に丁目の石柱と同じような材質の石柱を見つけた。(写真下左)
 「御神木 雨降木」と書かれてある。
 また、その先、奥の院に向かう途中で、同じような石柱を見つけた。(写真下右)
 こちらは、「大山頂上本社」と書かれてある。その側面には、「国定公園指定記念として大山口登山道…(読み取れず)…三十本を…(読み取れず) 東京豊島青果市場 昭和四十一年七月吉日」とあった。 
 丹沢大山国定公園が指定されたのは、1965年3月なので、それを記念して1年後に設置されたようだ。30本とは、28本の丁目石柱と、これら2本だろう。
 ....最初に30本ありきだったので、頂上まで28本だったのかと推察。
[雨降木の石柱] [大山頂上本社の石柱]

 12:13、頂上に到着。(写真下) この下のベンチにてランチタイムとした。
 修験者の時代の山頂は、どんな様子だったのだろうか。
『本社に大山祇大神(オオヤマツミ)、摂社の奥社に大雷神(オオイカツチ)、前社に高龗神(タカオカミ)を祀る。ただし、これらは明治になってから神仏分離の際に祀られるようになったものであり、江戸期以前の神仏習合時代には、本社には本来の祭神である石尊大権現(山頂で霊石が祀られていたことからこう呼ばれた)が祀られていた。また摂社では、奥社に大天狗、前社に小天狗が祀られていた。』 (Wikipoedia 「大山阿夫利神社」より抜粋)
[山頂標識]

 ランチタイム後、上空の雲がいつの間にか消えて、陽が差してきた。(写真下)
 おお!これは、暖かくなりそうで有難いと、ちょっと移動して、本社の方へ進む。
[上空が晴れてきた(奥の建屋が奥の院(奥社))]

 先ほどまで何も見えていなかったが、本社の前から真鶴半島が眺められた。
 また、本社横の温度計は、3℃に上昇していた。陽が照り、だいぶ暖かくなった。
 12:54、頂上を出発する。
[真鶴半島が見えてきた]

 さて、ドキドキの下りが始まった。一応、ストック2本を取り出し、右膝痛に備える。
 最初は、整備された階段の下りだ。段差がそこそこあるのだが、右膝は、やはり、全く痛くない。
 飛び上がるほど嬉しい反面、なぜ痛くないのだろうと頭の中が交錯する。
 下りながら考え、思い当たる節は、下記。
 ・今回、サウナ(このところ、ハマってしまい、1日おきに通っていた)で、腰掛けているとき、右足首を腰の段まで上げ、膝を立てて、脹脛と太腿をくっつける様に、痛い右膝を強制的に3分間ぐらい、思いっきり曲げていた。その後、痛くない左膝も実施し、右膝との比較をチェックする。そして再び右膝というように繰り返し行っていた。
 これで、右膝痛が解消されたとなると、治療方法は、動的ストレッチとなるのだろうか。結局、痛くて曲がりにくくなっていた膝を強制的に曲げることで、血流がよくなり、痛みが消えたと素人ながら、理由づけた。
 ....これも、やはり変形性膝関節症?
 ちなみにタイミング的によかったのは、再び、膝痛に効くと言われる飲み薬を買う前だったことだ。もし、飲み始めた後ならば、薬が効いたと思ってしまうだろう。
 ....永遠の服用となるところだった。この出費が避けられたことは大きい。
 14:14、見晴台に到着。(写真下) 右膝は、全く痛みを感じなかった。
[見晴台に到着]

 見晴台から下社に水平移動する。
 途中で、スギの大木とアカガシが隣接している立木を撮影。(写真下)
[スギとアカガシの立木]

 二重滝には、水が流れてなかった。
 枯れている光景は、初めてではないかと思う。
[二重滝]

 二重滝から水平に進み、「大山の原生林」の説明板の前を通っていく。このあたりは、アカガシの大木が目立つ。
 
15:08、男坂・女坂分岐点を通過。今度は、女坂を下っていく。(写真下)
 ここからも、右膝が痛いと、超スローペースになるところだったが、全く痛みは感じなかった。
[女坂を進む]

 15:25、大山寺を参拝。(写真下左)
 修験者のいた江戸時代では、大山寺は、廃仏毀釈前なので、まだ下社の場所だった。
『明治6年、現在の場所に仮屋を建て、ご本尊が安置される。
 明治18年、周囲20km内の村々による材木に寄進や、日本各地の人々による浄財の寄進により9年間にのぼる難工事のすえ本堂が竣工し、盛大に祝われる。』 
(Webサイト:大山寺から抜粋)
 正面石段のモミジは、完全な冬枯れ状態だ。(写真下右)
[大山寺] [大山寺の石段]

 石段の上から遠く相模湾方面を望む。
 江ノ島や三浦半島、その奥には、房総半島まで見え、思わず望遠で撮影。(写真下)
[三浦半島や江ノ島を望む]

 女坂を下った後、コマ参道を行く。(写真下)
 途中で、階段歩きが辛いということで、全員、右手の車道に移ったのだが、下りの坂道だと、足にブレーキ機能が必要で、それが大腿四頭筋をより酷使することを知る。だが、階段は、足を置く場所が水平であるため、ブレーキ機能が不要で、太腿は痛くならない。このため、再びコマ参道に戻った。ここでも、右膝の痛みはないが、大腿四頭筋は、結構、張っている。
 ....このところ、筋肉の老化現状が著しい。
[コマ参道を進む]

 16:12、大山ケーブルバス停に戻ってきた。
 16:15、伊勢原駅北口行きのバスに乗車し、帰路についた。
 [大山ケーブルバス停に到着]


 今回は、八菅修験者の道の最終ルートとして歩きましたが、初めて木太刀が下社に展示されていたこと、石柱が丹沢大山国定公園指定の記念として設置されていたこと等、今まで見逃していたことに気がついたり、石柱の全撮影等、有意義な山行となりました。
 同行の皆様に厚く御礼申し上げます。
 また、個人的には、何はともあれ、右膝の痛みが解消されたことは、有難いことでした。
 なお、筑波山ケーブルカーで発見した線路の件については、今回、中間駅の大山寺駅に行っておりませんので、確認は、次回持ち越しとなりました。



※山行時間には、撮影時間を含んでおりますので、ご注意下さい。