トップページ他山域山行リスト>大楠山・衣笠城址_記録20090921


大楠山・衣笠城址 〜三浦半島の山々〜

 山行日
2009年9月21日(月) 曇  単独行
 コース
前田橋(7:17)〜<前田川遊歩道>〜(7:45)大楠山ハイキングコース入口〜(8:53)大楠山レーダ雨量観測所(8:59)〜(9:16)大楠山(9:53)〜(10:09)阿部倉分岐点〜(11:10)大畑橋〜(11:54)衣笠城址(12:45)〜(12:50)大善寺(12:54)〜(13:22)満昌寺(13:34)〜(13:43)清雲寺(13:50)〜(14:00)腹切松公園(14:18)〜(14:38)佐原交差点〜(15:26)京急久里浜
 ある日、横浜ベイスターズのナイターをテレビで見ていたら、ふと、三浦一族の事が気になり、一冊の本を書棚から取り出しました。
 その本とは、
 「相模のもののふたち−中世史を歩く」永井路子(有隣新書:昭和53年)[有隣堂発行]
です。何年か前、丹沢の歴史に関する本はないかと探していた頃、見つけた本で、神奈川に何十年と住んでいながら、源氏の知識に疎かったことを痛感し、大変興味深く読んだ思い出があります。
 ....たいへん貴重な本だと思います。私が言うのもなんですが。
 この本では、平安時代末期から鎌倉時代初期の頃を中心に、源氏と関わりのあった三浦、和田、大庭、曽我、波多野氏など相模の武士団が紹介され、かつ実際に著者が、各氏の土地を訪れ、歴史を旅する紀行文となっています。
 今回は、その中の三浦大介義明に絞って、永井路子氏と同様、三浦氏の本拠地だった衣笠城あたりを歩くことを計画し、それに大楠山をプラスしました。 


 今回のコースは、まず大楠山に登り、後半に衣笠城址を絡めるというコースとした。
  ....おいしい所は最後に

 京浜急行新逗子駅に到着したのは、6:47。そこから長井行きのバスに乗車。三浦半島の西側なんて、何十年ぶりだろうと思うほど、車窓から見える景色は、初めてに等しい。時々見えた相模湾は、曇天のせいか、青い海という印象はなく、灰色のイメージだった。

 7:14、前田橋バス停にて下車。インターネットでの事前調査では、この先の大楠芦名口バス停からでも登山コースがあるようだ。しかし、歩いていて周囲に変化がありそうなのが、前田橋コースと思えたので、今回は、こちらを選択した。デジカメ撮影後、出発。(7:17)
 時間帯がまだ早いせいか、人影は見当たらない。
[今日の出発点:前田橋バス停(振り返って撮影)]

 バス停から左折し、住宅街に入る。すぐに前田川遊歩道の入口にぶつかる。
 遊歩道の案内板を見ると、このまま車道を歩いても登山道には行けるのだが、遊歩道を歩いていても途中から登山道に行けることがわかった。多少時間は余計にかかりそうだが、変化を求めて、遊歩道を歩くことにした。
 前田川の流れは、緩やかで、水量は、それほど多くない。だが、遊歩道は飛び石が多く、撮影しながら歩くと、ドボンとなる可能性あり。 
 また、曇り空のため、今日は、薄暗い遊歩道となり、撮影に苦労することになった。
  ....三脚が欲しい。
[前田川遊歩道を歩く]

 途中、大楠山ハイキングコースの入口の標柱が立っていた。ここで遊歩道から離れ、坂道を上っていくと、丁字路に出た。左の橋の向こうには車道があり、先ほどの車道をそのまま歩いていたら、ここに来るのだなと理解する。右を見れば、大楠山登山道。いよいよここからが、登山道だ。
[遊歩道の途中から山道に上がる]

  整備された階段状の山道を登っていくと、ごく普通の山道となった。道幅はそこそこあり、歩きやすい。
 おやっと思った。何やらカンバンのようなの物が立っている。近寄って見るとクイズと頂上までの距離が書かれてある看板だった。クイズは、3択の問題で、どうやらここから山頂までこのようなクイズの看板が続くらしい。ちなみにここの問題は、
 「Q1:相模湾に面した天神島は、ある植物の自生の北限地として知られています。それは何でしょうか。次のうちから選んでください。  
      1.ハマユウ   2.ハイビスカス   3.スカシユリ 」
 看板右下の一部をめくるようにすると、その下に解答が書かれてある。
  ....結構、難しいのだ。

 (Q1の解答)
[ハイキングコースクイズの看板]

 さて、どのくらい経っただろうか。クイズの看板がQ2、Q3、Q4と続くが、山道の変化は、正直言って乏しい。緩やかな登りが続いたかと思えば、緩やかに下っていく。周囲には、テカテカした濃緑の葉の照葉樹が多く、これが視界を遮り、イマイチ見晴しがよくない。
 いったいどのあたりを歩いているのか、さっぱりわからなくなるような低山域である。
 時々、道端に咲いている彼岸花に気がつく。(写真下)
[照葉樹の目立つ林の中を行く] [彼岸花が咲いていた]

 前方に小ピークが見え、5番めのクイズ看板を発見する。この先は、小さな下りで、その先にコスモスの花らしい群落を見る。そして、そのまま視線を奥に持っていくと...
 「んっ、これは」
 思わず、あれっと思った。こんなところに灯台のような白い塔が建っていたのだ。
  ....ホント、灯台だと思った。


 近づくと、隣にビルのような建屋(高さは、白い塔と比較したら、だいぶ低い)があり、その屋上が展望台のようだ。三脚が3、4台設置され、カメラマンのような人々の姿が目に入った。よし、まずはあの展望台に行こうと、建屋に向かう。
 展望台には4、5人の先客がいた。先ほどの三脚は、カメラの三脚だと思ったのだが、実際は、望遠鏡の三脚だった。展望台にいた人たちは、皆バードウォッチングを楽しんでいる人々だった。どうやらこの展望台は、バードウォッチャーにとってありがたい場所のようだ。
 「あっ、いた、いた。」と声を聞くも、肉眼ではよく見えない。そんな訳で、ここは、ちょっと撮影しただけで退場した。
 さて、大楠山頂上へ行こうかと進んでいくと、案内板があり、この灯台のような建物が、国土交通省大楠山雨量レーダ観測所であることを知った。塔の最上部がレーダアンテナで、レーダアンテナから発射された電波を雨にあて、跳ね返される強さを計算して雨の量を測定するとの説明文あり。 
[目の前に白い巨塔が]

 さて、少し下った後、左手の階段を上っていく。その階段をゆっくり登っていくと、あっけなく大楠山の頂上広場に飛び出た。(9:16)
 左手には売店がある。そのすぐ先に展望塔入口があった。先ずは、展望塔に上ってみる。
   ・大楠山展望塔からの眺め 1
   ・大楠山展望塔からの眺め 2
   ・大楠山展望塔からの眺め 3
 長時間、ボーっと眺めていたかったのだが、どういう訳か、ここだけ羽アリのような虫が大量に飛び回っており、仕方なく撮影しただけで降りてしまった。
 下の売店で、店番のおじさんに声を掛け、幾つかのパンフレットを入手した後、頂上の広場に向かう。
 ベンチに腰を下ろし、オニギリを食べながら、この先の衣笠城址へのルートを確認する。事前にネットでルート確認するも、時間が余りなく、よくわからなかったのだ。
 入手したパンフレットの中で、古紙入りの用紙に両面コピーされた「大楠山ハイキングコース」という案内図が重宝した。これに衣笠コースといって、衣笠城址への道が細かく記載されてあった。
 周囲には犬連れのファミリーが2組、犬は計4匹で、結構ワンワン吠えて騒がしかったのだが、衣笠城址への道を把握しようと集中していた時は、気にならなかった。
 9:53、頂上を後にする。
[大楠山頂上の展望塔入口] [大楠山の頂上広場]

 案内図を見ながら、先を進む。
 すると、左手にゴルフ場が現れ、金網の横を通るようになった。(写真下左)
 左手の金網がなくなり、ゴルフ場から離れると、分岐点に出た。(写真下右) ここで左折するコースは、阿部倉・塚山コースで、京急の安針塚駅までのハイキングコースとなっている。ちょうど左手から親子3代と思われるパーティとすれ違った。この道標の指す衣笠城址へと進む。
[ゴルフ場横を通過] [道標あり]

 登りの時と同じような緑の中の山道が続く。途中、視界が広がったと思ったら、送電線の下だった。再び、送電線の下を通り、一瞬、視界は広がるが、周囲は、緑の山だけで景色は、ちょっと単調だった。樹林は、このあたりも照葉樹が目立つ。
[相変わらず緑一色の樹林帯]

 10:52、右手に車道を見る。だが、このハイキングコースは、車道を通らず、わざわざ陸橋まで作って、車道を横断させている。(写真下左)
 しかし、2分後、ついにハイキングコースは、車道に出た。(写真下中央) ここからは、正面の車道を歩いていく。
 11:00、もう少しで直進しそうになった。左手に道が分かれており、コースは、そちらの方向だった。左手の道に気がつく前にクイズの看板が目に入った。これが幸いし、左の道に気がついたのだ。もし、クイズの看板がなかったら、直進していたかもしれない。
[右手に車道] [キ車道に出た] [車道から左折]

 左折した道は、古道のような雰囲気を醸し出していた。(写真下) ちょっと立ち止っては、デジカメ撮影を繰り返す。
[雰囲気が違う径路]

 11:10、陸橋(大畑橋)に到着。
 橋の下は、横浜横須賀道路が走っている。ちょっと高度感のある陸橋だ。周囲は、360度、山の中という感じで、高速道路と送電線以外は、緑の樹林帯しか見えない。それも人の手が入った植林帯ではなかった。宅地化が進んでいるような印象のある三浦半島だが、まだ山深い場所があることを思い知る。
[横浜横須賀道路を渡る(横須賀方面を眺める)]

 陸橋を渡り、階段を登った後は、比較的フラットな山道となる。右手方向から、先ほどの高速道路の走行音がちょっとうるさい。このあたりでも照葉樹と彼岸花が目立つ。
 最後に登り道となった。左にカーブしていくと人家の横に出てしまった。(写真下) この先は、再び舗装路となる。このルートでいいのか?と思いながら坂を下っていく。
[人家に出た]

 前方に古い道標を見つけた。どうやら正しい道だったようだ。近づいて道標を見ると、左の階段が衣笠城址となっていた。楽しみにしていた衣笠城址に近づいたようだ。
[左の階段を上って衣笠城址へ]

 大善寺の横を通過し、山の方へ向かっていくと、衣笠城址の標柱を見つけた。(写真下) この先が、城跡の一番高いエリアのようだ。目の前は、ちょっとした広場になっていた。
[念願の衣笠城址に到着]

 ここで、衣笠城合戦について、Wikipediaから引用。
 『衣笠城合戦(きぬがさじょうかっせん)は、治承4年8月26日(1180年9月17日)、相模国衣笠城(現神奈川県横須賀市衣笠町)で起こった秩父氏(平家方)と三浦氏(源氏方)による戦い。平安時代末期の内乱である治承・寿永の乱の合戦の一つ。
 (経過)
 治承4年(1180年)8月17日の源頼朝の挙兵に対し、源氏方に付いた三浦氏は22日に三浦を出発したが、大雨のため頼朝軍と合流出来ず、23日の石橋山の戦いの頼朝軍敗北により三浦に引き返した。平家方の武将である武蔵国の畠山重忠は頼朝挙兵の報を受けて家子・郎党を率いて出陣し、23日夜に金江河(現平塚市花水川)に陣をとっていた。24日、相模国の由井の浦(鎌倉市由比ヶ浜)で遭遇した両者は合戦となる(小壺坂合戦、小坪合戦)。『源平盛衰記』によると、三浦は小坪の峠に300騎、畠山は稲瀬川の辺りに500騎で対陣したという。重忠は郎従50名余りの首を取られて退却、三浦氏は死者を出しながらも本拠地の三浦にたどり着いた。
 26日、重忠は同じ秩父氏の総領家である河越重頼に加勢を呼びかけ、重頼は同族の江戸重長と共に数千騎の武士団を率いて重忠軍に合流し、三浦氏の本拠地である衣笠城を攻撃する。 (以下略)』 


 衣笠城址の標柱からさらに奥に進むと、ベンチがあった。ここで、ザックを下ろし、持参した「相模のもののふたち−中世史を歩く」を取り出す。(以下、本とは、この書籍を指す)
 この本では、いよいよ武蔵武士団が三浦氏の本拠地・衣笠城を攻めてくるという時に、三浦大介義明が登場してくる。
 『(前略)大手口について、三浦勢の総帥で、このとき八十九歳の義明は、こんなふうに指揮している。
 「木戸を三重にこしらえよ。大手口の道は、せいぜい馬二頭が通れるくらいにしろ。道の片方は沼地だからそのままにし、一方の平地には大堀を掘れ。道は三重に掘切って、はじめの堀には橋を広く渡し、中の堀には細橋を渡し、最後の堀には、坂茂木をかまえよ」』

 この時代で、89歳という高齢、まだまだ現役で指導力があったことにまず驚かされる。防御の指示の後、衣笠城での攻防が始まった。
 さらに読み続ける。
 『赤星氏の前掲書(三浦半島城郭史)によると、このとき三浦勢(加勢も含めて)四百数十、攻め手側は三千くらい、と見ておられる。絶対数を確認する手がかりを私は持ちあわせないが、双方の差は、まずそのくらいと見ていいだろう。
 これだけ差があると、野戦はもちろん無理だし、城に籠って戦いぬくこともむずかしい。それでも一日中、どうにか持ちこたえたが、とうとう大手の最前線一ノ木戸口が破られた。三浦側の人々は全力を出し切っているが、敵の主力はまだ手つかずだ。明日は手負いの綴党、村山党に代って新手の精鋭が襲いかかって来るだろう。 
 敗色歴然。いよいよ明日は討死−−−と一同が覚悟を決めたとき、一族を呼び集めて総帥三浦義明が口をきった。そしてこのときの言葉ほど印象的なものはない、と私は思っている。』

 さらに、著者の臨場感溢れた文章が続く。
 『事態は切迫していた。呼び集められた親族、あるいは主だった郎党の瞳は、すでに死、それしか見つめていない、といった色をたたえていた。それらの男たちの前で義明は言った。
  「死ぬな。何も犬死を急ぐことはないぞ。」
 自分たちはもう存分に戦った。武士としての面目は立っている。この上は城を棄てて、命を長らえよ−−−と彼は言ったのである。
 それはなぜか。義明は、源頼朝の最後の勝利を疑わなかったのだ。この時点で三浦勢は頼朝の安否について知らされていない。敗北は確実−−−というその状態にありながら、彼は頼朝の生存を信じ、その勝利に賭けようとした。この精神のたくましさ、八十九歳という年齢を忘れさせるほどの若々しさがある。』

 
こうして義明は、一族を城から立退かせるのだが、自分自身は、この城に残ると主張した。
 そして、落城の際、壮絶な最期を遂げたと言われる。
 このような人物を著者の永井路子氏は、 

 『剛毅と冷静−−−この二面をあわせもった彼は、まさに鎌倉時代の幕開けを飾るにふさわしい人物だった。』
と評している。
 ここで、本を閉じ、ザックを背負って、奥の、より一層高い所へ向かっていく。

 
頂上の手前には、かなり古そうな衣笠城址の碑が立っていた。
 これが、本に載っていた碑だと思い、近づいてみる。四角柱なのだが、一面だけ「衣笠城址」と書かれてあった。本に掲載されている碑の写真と比べてみたら、やはり、手前の木が成長しているのがわかった。この本が出版されたのは、昭和53年。もう30年以上も前のことだ。本の写真との違いに時の流れを感じる。
 その先に大きな一枚岩があった。どうやらこれが、物見岩といわれる岩のようだ。
 本の中では、『土中から半身を露出させた巨石が、半ばを樹に蔽われながら、ふてぶてしく坐っている。』と表現されている。
 今では、その岩の上に根を張った樹が立派に成長していた。
 岩の上に立ってみた。
 本では、ここから『大矢部、佐原方面への眺望がひらける。』と記載されてあったが、残念ながら今では、周囲の照葉樹が育ったため、全くと言っていいほど、視界は広がらなかった。
[奥にあった衣笠城址の碑]

 再び、手前の広場に戻ってきた。 腹が減ってきたので、ベンチに腰掛け、ザックからオニギリを取り出す。
 三浦大介義明が、一族を呼び集めたのは、今、自分がいるあたりだろうか。それとも、さっき横を通った大善寺あたりだろうか。いずれにせよ、このあたりが本城だったようだ。
 前方(谷側)を眺める。義明の時代では、これほど木が茂っておらず、視界は良かったのだろう。それゆえ、敵の行動も見やすく、応戦し易かったに違いない。
 そんなことを考えながら、オニギリを口に含む。
 目の前には、クモの糸?に繋がった枯葉がぶら下がっていた。(写真下)
[再び広場に戻った]

 大楠山で入手した案内図において衣笠コースは、この後、衣笠山公園へと続いている。だが、その方面には、三浦氏に関する史跡は、無いようなので、ここでハイキングコースからは、外れ、オリジナルのコースを辿ることにする。
 12:45、ベンチから立上がって、歩き始める。来た道を引き返し、大善寺に横から入っていく。
 それほど大きな寺では、ないようだ。本殿に参拝した後、正面の階段を下っていく。(写真下)
[大善寺での階段]

 寺の入口を左折したところに立て看板があった。(写真下)
 看板は、「大善寺と不動井戸」について説明している。その説明文によれば、井戸は、このコンクリートで囲まれた井戸の辺りであるとのこと。だが、コンクリートに囲まれた井戸とは、具体的にどこなのか、よくわからず。(説明板の左側だろうか)

 再び、本を取り出す。
 この本で著者は、この井戸から衣笠城を下記のように評価している。
 『道を登って来たところに大きな涌水の井戸がある。滝不動が祀られ、「不動の井戸」と名づけられたその泉は、透明ではなかったが、今も豊かな水量を保つ。これをはじめて見たとき、
 −−−なるほど衣笠は名城なのだ。
と感嘆したものだ。いかに要害であっても、水のない所には籠城はできない。この高みにこの泉を持つことは無二の強みである。(以下、略)』
 本が書かれた30年ぐらい前では、まだ泉の水が見えていたらしい。
[不動井戸の説明板]

 坂を下っていく。この道が、大手門からの主要道だったようだ。今では、閑静な住宅街となっている。この先には、大矢部、佐原といった平地へと続く。
[車道を下っていく]

 坂を下り、車道を歩き続け、トンネルを通って、衣笠インター入口の交差点を通過。この交差点は、地下道を通り、横断する。さらに直進していく。次の目的地は、三浦義明の首塚があるとされる満昌寺だ。

 満昌寺に向かう大通りは、道幅も広く、左右には住宅が広がっている。このあたりが大矢部という地名らしい。(写真下)
 義明の時代でも、この平地には人がそれなりに住んでいたのだろうと推察される。
[満昌寺に向かう]

 そろそろ左手(北側)にあるはずだがと、左側の住宅街を気にしながら、満昌寺を探す。
 すると、墓地が見えてきた。どうやら、このあたりのようだと思っていたら、ドーンと満昌寺の名前が目に入った。(写真下)
 満昌寺は、建久五年(1194年)九月、源頼朝の意思に基づき三浦大介義明、追善の為、創建されたと伝えられる。(寺の説明板「満昌寺の由来」から)
 予想以上に大きい寺だった。門の横を通り、境内に入っていく。
 本堂に参拝した後、柱に何やら札が掛けられてあった。
 「當山の文化財拝観は予約が必要です
  拝観者は受付に声をかけて下さい
  市重文  宝冠釋迦 天岸慧廣像 他
  国重文  三浦義明像 他寺宝
                        満昌寺」

 簡単には見られないと思っていたが、予約をすれば見せてくれるようだ。
[満昌寺に到着]

 ちょっと本堂の左側に入ってみる。(写真下)
 ここが御霊明神社らしい。(満昌寺の中に御霊明神社がある。)三浦義明坐像は、この奥の社に安置されているようだ。
 この木像は、写真で見る限り、老人のリアルな顔の表情で、そのつり上がった目は、いかにも義明らしい。但し、本では、室町時代の作と言われており、永井路子氏は、
 『その風貌から、在りし日の義明のそれを連想するのは当を得ないかもしれないが、往時の彼をしのぶよすがにはなろう。』
 と表現されている。(寺の説明板では、「制作の時期は、鎌倉時代末期と推定」と記されてあった)
 また、この御霊明神社の背後に義明の首塚という廟所があるようだ。
[御霊明神社の入口]

 続いて、清雲寺を訪問する。大通りを渡り、東へ少し進むと、清雲寺入口の看板があった。ここには、義明の父祖にあたる三浦為通・為継・義継の墓と伝えられる五輪塔がある。だが、どうも寺の裏手にあるようだ。そんな訳で、寺の雰囲気だけを感じて、さっさと引き返した。
 さらに東に進む。次の目的地は、三浦大介腹切の松だ。
[清雲寺]

 ちょっと迷うかと思ったが、場所は、あっさり見つかった。
 ここで、永井路子氏の意見を本から引用する。(ちょっと長いが)
 『言い伝えによると、衣笠城に籠城した義明は、敗色が濃くなったとき、心ならずとも郎党たちの手で輿に乗せられ、ここまで逃れて来て腹を切ったとも、敵将江戸重長に捕らわれて首を刎ねられたともいう。では、義明の最期の地は衣笠ではないのか。
 これが事実ならば、潔い死を覚悟した老将にしては、いささか不面目な最期である。が、これはむしろ、義明とこの大矢部のつながりの深さから生まれた伝承ではないか、と私は思う。先に述べたように頼朝はこの地に彼の冥福を祈る寺を建てている。いま満昌寺にある墓所は、義明の首塚という伝承もあるので、それが、いつか、ここを彼の最期の地とする考え方に変り、衣笠城で最期を遂げたはずの義明を、むりやりここまで担ぎ出してしまったのではないだろうか。これは、想像にすぎないのだが、せっかくさわやかな死を決意した義明のためにもこう思いたいところである。』

 思わず、ウン、ウンと頷いてしまう。
[三浦大介腹切の松]

 その腹切の松の碑の隣に三浦大介義明公八百年祭記念碑なるものが立っていた。碑の裏には、昭和55年とあり、これが800年ということは、1980-800=1180年。1180年は、義明が没した年なので、どうやら没後800年の記念のようだ。
 裏には協賛された人々の名が刻まれており、最後に「満昌寺住職第三十世 永井宗誠」とあった。今回は、作家の永井路子氏、満昌寺の住職永井宗誠氏と、どうも「永井」に縁がある。
 [腹切の松には、800年祭の記念碑あり]

 再び、大通りに出た。
 これで、予定していた史跡は、全て訪問した。後は、帰路につくことになるが、せっかくなので、三浦氏のゆかりの地、大矢部、佐原と歩くことにした。
 このあたりは、真平らな土地で、三浦氏の時代でも人が住みやすかったことは、容易に想像できる。
 だが、歩いている道は、単なる一本道である。片側2車線の道路で、交通量が意外に多い。いったいどこに向かう車なのだろうと思ってしまう。
 歩き始めて、ちょっと後悔。
[大通りに再び出る]

 佐原の交差点で、左折すれば、京急の北久里浜駅に辿り着く。京急久里浜駅よりは、近いことを事前調査で知ってはいたのだが、ここは、京急久里浜駅に向かった。
 それは、三浦氏の時代、現在の京急久里浜駅の北側にある丘陵地に怒田城があったのだが、その地を眺めてみたいと思ったからだ。
 いい加減、車道歩きに疲れた頃、左手に空き地が広がり、その先に丘陵地が見えた。方向からして、あの丘陵地のどこかに怒田城があったものと思われる。(写真下)

 秩父氏の軍団が攻めてくるとの情報を得たとき、義明の孫である和田義盛は、この怒田城に籠城すべきだと主張している。だが、義明に言わせると、「こんなマイナーな城では三浦の名が廃る。怒田とは、どこぞと言われるのがオチ。」ということで、籠城は、衣笠城だと反対された。

 ちょっと強めな風を顔に受けながら、しばしボケ〜と、丘陵地を眺めていた。
 [怒田城方面を眺める]

 ようやく京急久里浜に到着。(15:26)
 高架になっている駅のホームで、上り特急を待つ間、今日のハイキングシーンを振り返る。予想以上に楽しく、独りホーム上でほくそ笑んでいた。
  ....他人が見たら、気味悪し。
 [京急久里浜駅に到着]


 後半は、舗装路歩きで、足の裏が痛くなるかと思いましたが、ザックが軽かったせいか、非常に快調でした。三浦半島としては、初めてのハイキングでしたが、大いに楽しめました。ですが、大楠山で富士山が眺められなかったのは、ちょっと心残りとなりました。そんな訳で、富士がくっきり見えるような真冬の頃に訪れて見たいと思います。

 衣笠城址の方も、期待通りでした。
 いろいろネットで調べますと、今の衣笠城址の原型は、戦国時代の北条氏(後北条氏)が整備した跡という説に当たりました。ですが、そのようなことは、私にとって、さほど重要なことではありません。「三浦氏の本城がここにあったと推定される」で十分です。それから先は、自分が歴史小説家になった気分で、当時の人物の行動を構想することで楽しめれば、いいと思っています。



※山行時間には、撮影時間を含んでおりますので、ご注意下さい。