トップページ他山域山行リスト>箱根旧街道(東坂)_記録20220416


箱根旧街道(東坂)

 山行日
2022年4月16日(土) 曇       同行者:「山の会2」メンバー 13名
 コース
須雲川(9:29)〜(9:37)探勝路入口(9:43)〜(10:08)江戸時代石畳〜(10:17)接待茶屋跡〜(10:44)畑宿〜(11:32)雲助の説明板(11:39)〜(12:25)甘酒茶屋(13:00)〜<杉並木>〜(14:29)箱根関所跡
 箱根旧街道「箱根八里」とは、小田原宿から三島宿までの八里(約32km)の道と言われてます。また、小田原から箱根峠までを東坂、箱根峠から三島までを西坂と呼んでいます。
 今回は、その東坂のうち、須雲川から箱根関所跡までを歩いてきました。
 今まで、何度か部分的に、この旧街道を歩きましたが、今回のように旧街道を目的として歩いたのは、初めてでした。
 詳細は、以下をご覧下さい。


 箱根湯本駅から旧街道経由の元箱根行きバスに乗車。
 須雲川バス停にて下車。(9:28) 今回は、ここがスタート地点だ。車の往来があり、メンバーが集合して話せる場所がないので、取りあえず先に進む。
[須雲川バス停にて下車(↑上記バス停は上り用で、下り用にバス停は無し)]

 9:37、須雲川自然探勝歩道入口に到着。ここで、本日のオリエンテーションを行われた。
 今日は、総勢13人なので、列も長くなる。
 須雲川の右岸に出ると、そこから、左岸に渡る。(写真下)
[須雲川の左岸に渡る]

 左岸から舗装路を登った先は、白銀山登山のため、今まで何度か来たことのある発電所前バス停だった。ここを左折して、旧道の割石坂に入る。(写真下)

[割石坂入口方面を見る]

 割石坂に入ると、10:08、「これより江戸時代の石畳」の道標が右手に立っていた。そんなに道幅は広いとは思えない石畳が続いている。
 10:12、続いて「箱根路のうつりかわり」と言う説明板が右手に立っていた。
  碓氷道 箱根でもっとも古い峠路
、 足柄道 奈良、平安時代に利用された路
  湯坂道 鎌倉、室町時代に開かれた路
  旧東海道 江戸時代に開かれた路
  国道(1号線) 現在の東海道
 これを見ると、最も古い碓氷路が、何故、乙女峠・碓氷峠・明神ヶ岳頂上付近・関本という標高1100mレベルまで登るルートだったのか不思議だ。ヤブが少なく、草刈等のメンテが不要だったという事だろうか。
[箱根路のうつりかわりの説明板]

 国道に出る直前に「接待茶屋」の説明板があった。
 『接待茶屋
 江戸時代後期、箱根権現の別当如実は、箱根八里を往還する旅人や馬に、湯茶や飼葉を施し、大変喜ばれていましたが、資金が続かず行き詰まってしまいました。
 如実は、江戸呉服町の加瀬屋与兵衛らの協力を得て、施行の断続を幕府に願い出、文政7年(1824)、ようやく許可がおりました。
 再開にあたって新しく設置する施行所を畑宿と須雲川に希望していましたが、2か所とも立場であるため、許可されず、東坂は割石坂のこの辺りに、西坂は施行平に設置されました。  箱根町』
....今も昔も、商売は資金繰りが命。

 これを読み、「立場」とは何か調べた。
 『「立場(たてば)」とは、宿場と宿場と宿場の間にあって、旅人や人足、駕籠かきなどが休息する場所のことです。もともと杖を立ててひと休みしたのでその名が生じたといわれています。』
 (出典:Webサイト「東海道への誘い」 国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所)
[接待茶屋の説明板]

 旧道の大澤坂を通り、ひょいと上がると、国道732号線に出た。
 国道を歩いていくと、右手に本陣跡の説明板を見る。ここが畑宿の本陣のあった場所との事。家屋は、大正元年に全村火災で焼失したという。ただ小規模な日本庭園は、残ったという。
 
 さらに進み、畑宿一里塚に向かう。(写真下)
[一里塚手前にて]

 一里塚を過ぎ、旧街道を進むと、再び、国道に合流する。
 国道沿いを歩いたり、階段を登ったりと、この辺りは、旧街道の趣きはない。階段を登っていく途中で、丁字路に出る。ここには、見晴橋の標柱が立っており、手前の道標には、左折が「元箱根3km」と書かれてある。ということで、左折すると、再び旧街道となった。
 11:32、雲助の説明板の前で小休止。
 説明板には、下記のような事がかれてあった。
 『雲助とよばれた人たち
 「箱根の雲助」というと知らない人はいません、ところが雲助とよばれた人たちは、実は、この小田原の問屋場(といやば)で働く人足たちだったのです。
 しかし雲助というとなにか悪者のように考えますが、それは一部の人で、問屋場では、人足を登録させ仕事を割当てていましたので、悪さをした人などはいなかったといいます。
 日本交通史論という資料によると、雲助になるのは次の三つにパスしなければならなかったそうです。その内容をみると、なかなかむずかしく誰でも、すぐなれるという職業ではなかったようです。
 1.力が非常に強いこと。(これは仕事の性質上ぜひ必要です。)
 2.荷物の荷造りがすぐれていること。(荷物を見ると、だれが造ったものかわかり、また箱根で一度荷造りした荷物は、京都まで決してこわれなかったそうです。)
 3.歌をうたうのが上手でないと、一流の雲助とは言われなかったそうです。
 こうした人足のほかに、馬をひく「馬子」、駕籠をかつぐ「駕籠かき」たちの雲助が、元箱根や湯本など箱根の各地に住み通行や温泉遊覧のたすけをしていました。 環境省・神奈川県』
[雲助とよばれた人たちの説明板]

 旧街道がしばらく続いた後、国道を横断する。
 ちょっと天気が悪くなり、小雨が降ってきた。
 だが、ちょうど甘酒茶屋の隣にある旧街道休憩所に滑り込む。ここは、甘酒茶屋と同様、茅葺屋根の旧民家で、内部は、無料休憩所になっている。ここでランチタイムとした。(12:25)
[甘酒茶屋に到着]

 ランチタイム終了後、出発しようとしたら、幸いにも、小雨は、止んでいた。
 国道を横断して、旧街道に入る、(写真下)
 この先からは、今まで歩いたことが無い自己未踏ルートなので、ワクワクしながら歩く。
[旧街道に入る]

 立派な石畳で、そこそこ道幅がある。午前中、歩いてきた旧街道とはちょっと違う。
 滑りやすいので、注意しながら登っていく。
[石畳の続く坂道]

 石畳の旧街道を歩いているうちに天気が回復してきた。
 13:45、舗装路を横断する。右手は、お玉ヶ池方面へのルートとなっていた。
[お玉ヶ池分岐点(振り返って撮影)]

 旧街道が下りとなる。
 ここの石畳は、かなりデコボコしていた。これが、本来の姿だったのかもしれない。
[芦ノ湖に向かって下っていく]

 やがて、車道に出た。
 芦ノ湖湖畔の国道を歩いた後、並行して続いている杉並木の旧街道に入る。(写真下)
 元箱根あたりは、バイクに乗っていた20代の頃、毎週のように通っていたが、この杉並木を歩くのは、初めてだった。左右の杉は、樹齢300年以上(注)だろうか。昨今の豪雨に耐え、樹高の高い杉並木が倒れずに、これだけ残っているのは、不思議なくらいだ。
 途中で見かけた説明板では、芦ノ湖畔周辺の四地区に約420本の杉が残されているという。
 14:20、再び国道に出た。

(注)調べたら、下記の情報を見つけた。
『箱根町教育委員会が、今までに枯れて伐採された杉の年輪を調べたところ、樹齢は最高でも350年ということです。ですから十年生の苗木を植えたとすると、340年前、つまり1660年ごろに植えられたということになります。
現在、箱根には芦ノ湖畔を中心に412本の杉並木が残っています。しかしかつてはもっとたくさんの杉並木がありました。というのも明治37年(1904)に、湯本から芦ノ湖畔に至る新道を工事するときに、工事費が不足したため、並木を伐採売却して工事費の足しにしたことがあり、この時点で切り倒された並木は、松と杉を合わせて、1024本に及んだというのです。
箱根町教育委員会の調べによれば、現存する杉のうち、良好な健康状態を保っている木は412本のうちわずか30%。100年後には現在の三分の一の本数になってしまうかもしれないとさえ危惧されており、箱根町教育委員会では見事な杉並木を未来に伝えるため、その保護活動に力を注いでいます。』
 (出典:Webサイト「東海道への誘い」 国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所)
[杉並木を進む]

 14:26、関所跡手前から奥の山を眺める。左奥の山は、鞍掛山のようだ。(写真下)
 緩い下り坂を進み、14:29、本日のゴール箱根関所入口に到着した。
 [箱根関所跡手前から鞍掛山方面を眺める]


 冒頭に記載しましたように通しで旧街道を歩いたのは、初めてでした。また、今回のように旧街道を歩くというのは、自分の興味とマッチしているのが分かってきました。今後も、このような旧道を歩いていきたいと思っています。



※山行時間には、撮影時間を含んでおりますので、ご注意下さい。