トップページ他山域山行リスト>油壺・入江のみち_記録20230111


油壺・入江のみち   〜関東ふれあいの道2〜

 山行日
2023年1月11日(水)  晴   単独行
 コース
三崎港バス停(11:00)〜(11:40)歌舞島公園(11:44)〜(11:51)見桃寺〜(12:25)諸磯湾〜(12:28)油壺湾分岐点〜(12:36)油壺公園(12:41)〜(12:53)油壺温泉バス停〜(13:09)田辺大禺句碑(13:11)〜<荒井浜>〜<胴網海岸>〜<横堀海岸>〜(14:46)京急油壺温泉キャンプパーク〜(14:51)三浦道寸墓(14:58)〜(15:20)キャンプパーク裏の海岸(15:25)〜(15:33)油壺温泉(16:48)〜(16:53)油壺温泉バス停
 昨年末、関東ふれあいの道1(三浦・岩礁のみち)を歩きましたが、予想以上に意外性があり、面白かったので、今回、右膝痛のための平地歩きの第2弾として、関東ふれあいの道2(油壺・入江のみち)、及び油壺のウォーキングコースを歩いてきました。
 詳細は、以下をご覧下さい。


 京浜急行三崎口駅を下車し、駅前から城ヶ島行(三崎港経由)バスに乗車する。平日ということだろうか、地元の人たちが20人ぐらい乗っていた。
 だが、途中の三崎東岡で殆どの乗客が降りてしまい、残った乗客は3人となった。
 10:48、三崎港バス停にて下車。目の前に関東ふれあいの道の説明板があり、今回のルートを確認。それと前回、関東ふれあいの道1で見かけた三角柱の道標をここでも見かけた。その後、ぶらぶらと周囲を散歩した後、11:00出発。
[三崎港バス停の傍に立つ関東ふれあいの道の説明板]

 すぐ左手が三崎漁港(本港)だ。
 右折して、うらりマルシェ(三浦野菜と三崎マグロの産直センター)に寄り道する。建屋の中に入ると、物品販売の他、みうら映画舎のminiロケギャラリーがあった。みうら映画舎は、撮影支援を中心に町おこし活動をサポートするNPO法人で、いろいろな台本やサイン色紙などが展示されている。
 ....綾瀬はるかのサインを初めて見た。
[三崎漁港]

 うらりマルシェを出て、関東ふれあいの道2のルートに進もうとした時、目の前で若い男女4人がマグロの店に入るのを見かけた。
 う〜む。せっかく三崎に来たのだから、やはり食べるかと、4人組の後に店に入ってしまった。
 ということで、今回は、いきなり腹ごしらえ。
 ....マグロを食べるのであれば、京急の「みさきまぐろきっぷ」を買って来ればよかったと後悔。
     また、生シラスは、今の時季、旬ではない筈だが、意外と美味しかった。
[刺身定食(ライス大盛)を注文]

 店を出て、西側に歩いていく。
 道路横に「三浦一族歴史のコース 歌舞島」という説明板が立っていた。その説明板の先に細い坂道が続いている。これが歌舞島公園への道かなと進む。
 登っていくが、とくに歌舞島公園という文字は、見かけなかった。海側を眺めても、建屋と埋立地ぐらいしか見えない。奥まで行ったが、すぐ引き返す。ちょっと残念な公園だった。
 ちなみに道路横にあった説明板には、下記のように書かれてある。(一部を抜粋)
 『歌舞島
 鎌倉時代、すでに三崎は、鎌倉幕府の行楽の地として、源頼朝公をはじめとして多くの幕官が来遊していました。ここ歌舞島も頼朝公が歌舞宴楽を催したところからこの名が残されています。また一説には、三浦義村の招きで当地を訪れた将軍藤原頼経が来迎(極楽から仏を迎える)の儀を行い、読経歌舞を催したところからその名が伝えられたともいわれています。
 この歌舞島は、土地の人は訛って「かくじま」と呼んでいますが、別名兜(かぶと)島ともいい、往時は兜に似た離れ島でありました。それが地殻の隆起によって現在のように海岸に突出した陸続きの小丘となったのです。(以下略)』
[歌舞島公園]

 続いて、関東ふれあいの道の説明板に載ってあった見桃寺に向かう。
 車道を歩いた後、右手の路地に入ると、左手に見桃寺を発見。(写真下)
 ここには、三浦七福神「桃林布袋尊」が祀られ、開山したのは、慶長18年(1613年)とのことだが、寺の本堂は、コンクリート建屋で、意外や意外。やはり、今回も予想外のことが起きそうだ。
[見桃寺]

 海岸線の車道を北上していく。
 右手には、岩礁が見える。その上に多くの海鳥が佇んでいた。しばし、カメラを向けて撮影を楽しむ。(写真下)
[海鳥を眺める]

 左手には、海が見えるのだが、漁港など人工物が続いている。
 その後、道は、山側に入り、海が見えなくなったりする。
 坂を下っていくと、右手に白壁のマンションが建っていた。結構、大規模なマンションで、ちょっとドキッとしてしまった。(写真下)
[尾上町シーサイドタウン]

 坂道を登った後、下りになると、左手は、戸建ての住宅街となった。変化のない光景だな〜と思っていたら、左手に海が見え始めた。地図で確認し、ここが諸磯湾だとわかった。
 これは、素晴らしい光景だと思ったのは、ヨットハーバーだ。(写真下) しばし、白で統一されたヨットを見入ってしまった。
 ....雲がなければ、湾の先に富士山が見えるらしい。100点満点のアングルでは、ないか!
[諸磯ヨットハーバー]

 諸磯湾を過ぎ、切通の山道に入る。
 それを過ぎると、目の前に道標を発見。(写真下左)
 車道を直進するのは、「油壺バス停へ」と記されてある。一方、左に進む方向には、「油壺湾を経て油壺バス停へ」とあった。地図を見る限り、車道は、あまり面白くなさそうなので、ここは、左の海沿いの道を行くことにした。
 車道側には、関東ふれあいの道の説明板「三浦道寸父子と油壺湾」が立っていた。(写真下右) 三浦道寸は、油壺での重要人物で、この後も出てくる。
[分岐点の道標] [「三浦道寸父子と油壺湾」の説明板]

 左の道を行くと、左手には、陸上保管されているヨットを数多く見る。
 その先は、油壺湾で、ここにも数多くのヨットが停泊していた。(写真下)
[油壺湾]

 左に油壺湾を見ながら進んでいくと、右手に広場が現れた。油壺公園とある。あれっ、先ほど小さい公園を右手に見たが、そこも油壺公園と書かれてあったような気がする。(2か所あるようだ)
 広場の奥に進むと、石碑が建っていた。
  『この小網代をスタートして
   われらは、進んだ 永遠のレースへ
   吹きつのる風、おしよせる波
   最後まで、力を尽くしてたたかった
   あの水平線のかなたは われらのしとね
   海を愛する人々よ、忘れないでくれ
   海のきびしさ、海のやさしさ、
   そして、海を愛するこのわれわれを』

 何を意味するのか、下側の碑を読んで理解した。
  『昭和37年11月3日夜、相模湾で行われたヨットレースで、思いがけないことがおこりました。参加した43隻の大型ヨットのうち慶応義塾大学の「ミヤ号」(乗組員4人)と早稲田大学の「早風号」(乗組員6人)が、突然の暴風のために行方不明になり、さらにほかの艇に乗っていた慶応義塾大学の一人も波にさらわれてしまいました。家族の人や両大学の友人や関係者、海上保安庁、自衛隊、そして各地の漁協や消防署まで、大勢の人々の捜索活動が続けられましたが、ヨットは発見されませんでした。 元慶応義塾大学教授 村井実著 小学校5年教科書 “ヨットのそうなん”より抜粋』
 石碑に対して合掌。
[石碑]

 坂道を登っていき、登り切った所で車道に合流し、左折して進む。
 すると、目の前に駐車場のような広場に出た。(写真下)
 奥の正面にあるのが油壺温泉バス停だった。
 
[油壺温泉バス停に出た]

 油壺温泉バス停に向かう時、油壺のウォーキングコースが記されている説明板が目に入る。(写真下) すでに閉鎖してしまった「油壺マリンパーク」の部分には黒ペイントで文字が塗りつぶされてあった。
[油壺の案内板]

 油壺温泉バス停(道標の「油壺バス停」を指す)にちょうどバスがやってきた。(写真下左)
 また、バス停を出た先に関東ふれあいの道の道標が立っていた。(写真下右)
 ここが関東ふれあいの道2「油壺・入江のみち」のゴールだった。

 う〜む。
 関東ふれあいの道第2弾の「油壺・入江のみち」は、今回、あっけなく終わってしまった。「三浦・岩礁のみち」と比べると、車道歩きがメインで、距離が短く、見学ポイントが少なかったというのが、率直な感想だ。
 まだ、時間があるので、先ほど見かけた案内板に載っていた油壺ウォーキングコースを歩くことにした。

[油壺温泉バス停] [関東ふれあいの道の道標]

 油壺温泉バスを出発し、西側に続く道を進んでいく。
 やがて、左に分岐する道が現れたところで、左折する。(写真下)
[左に分岐路あり]

 細い道を進むと、右手に「新井城址」の説明板が設置されてあった。
 さらに一本道を歩いていくと、「油壺湾」の説明板が目に入る。ここには、油壺の名のいわれが書かれてある。(一部を抜粋:下記)
 『油壺のいわれは、永正13年(1516年)新井城(今の油壺一帯)を最後の居城として立て篭った三浦一族が北条早雲の大軍を相手に三年間にわたって奮戦しましたが空しくついに全滅し、一族の将三浦道寸義同をはじめその子荒次郎義意は自刃、他の将兵も討死、または油壺湾へ投身したと伝えられそのため湾一面が血汐で染まり、まるで油を流したようになったので後世「油壺」といわれるようになりました。(以下略)』
 その先には、「白秋文学コース 油壺」の説明板を見かける。この辺り、なかなか読み応えのある説明板が続いていた。
 その白秋文学コースの説明板の先には、田辺大禺句碑が建ち、すぐ隣には、かながわの景勝50選「油壺湾」の碑も建っていた。
 句碑からの油壺湾の眺めは、素晴らしく、思わず息を呑む。ここからだと、油壺湾が台風が来ても外界の波が入りづらく、ヨットハーバーに打って付けな場所であることがよくわかる。
[田辺大禺句碑と油壺湾]

 さらに一本道をどんどん進んでいくと、荒井浜という海岸に降りた。
 正面には、薄っすらと富士山が肉眼では見えていたが、(写真下)では、見えていなかった。
[荒井浜に出た]

 荒井浜を北上していく。すると、右手に「三浦一族資料館」なる建屋を発見。
 入館無料ということで、入ってみる。
 ....場内については、ヒミツ。
[三浦一族資料館]

 三浦一族資料館では、ちょうど見学に来た女性二人(親子のようだ)と一緒になり、ちょうど大河ドラマの「鎌倉殿の十三人」の話題で盛り上がる。
 女性二人と別れた後、海岸線を北上していく。(写真下)
 これこれ、この歩きと景色を待っていたのだと、「三浦・岩礁のみち」と同じようなコースになったことで、気分が高揚してきた。
[胴網海岸の方へ進む(1)]

 撮影する楽しみも増えた。(写真下)
 富士山が今一つ、はっきりしないのが残念だが、磯のアングルは、豊富だ。
[胴網海岸の方へ進む(2)]

 磯の先にダイサギのような白い鳥が一羽、佇んでいた。他に同じような鳥は見当たらない。
 カメラを向けて撮影。
[ダイサギ?]

 海岸線を進むが、海岸付近が歩けない所は、道が山に登るように続いていた。高台に上がったところで、しばし、水平線を眺める。(写真下)
 「いいね〜。」 思わず呟く。
 関東ふれあいの道2のゴールが油壺温泉バス停となっていて、何でこのウォーキングコースが含まれないのか不思議だ。
[高台に上がる]

 磯から砂浜に出た。ここが、胴網海岸だと知る。(写真下)
 正面に砂浜から高台に続く道が見える。それが、どうもウォーキングコースのようだが、ここは、もう少し、海岸線が歩きたかったので、丘に進まず、このまま海岸線を進んでいく。 
[胴網海岸(歩いてきた方向を望む)]

 釣り人の横を通り過ぎ、岩場を進んでいく。(写真下)
[横堀海岸へ向かう]

 しかし、だんだんと厳しい状況になってきた。
 これは、「三浦・岩礁のみち」と同じパターンではないかと思えてきた。
 なるべく海水レベルのすぐ上あたりの岩場を通過していたのだが、ここにきて少し高い所が出てきた。(写真下) また、足場の幅がいささか狭く、手で掴むものがない。
 う〜む。
 右膝の痛みがなければ、さっさと通過できそうだが、膝を曲げた時に痛みが出たら、バランスが崩れそうで恐ろしい。まあ、滑りそうではない岩場だったので、思い切って進んでいく。
[本日の核心部その1]

 すぐにまた、緊張する岩場が出てきた。(写真下)
 またしても、岩を手で掴むような箇所がない。だが、先ほどと違って海面が近いので、それほどスリル感はない。しかし、今度は、海水が入り込み、完全に次の岩場に足が届かない箇所が出てきた。だが、左下を見ると、海面すれすれに出ていた岩を発見。そこに足を乗せれば、なんとか渡れそうだ。そう思い、左足を岩に乗せたところ、なんと小波が押し寄せて、左足は完全に水没した。
 え〜!なんで!
 と、左の海を見たら、ちょうど漁船が走っていた。その波が運悪く、到達してきたのだ。
 ということで、今回は、片足ドボンを経験。
 この後、砂浜の横堀海岸に到着。この先は、もう海岸線歩行を諦め、丘に上がる道を選択した。
[本日の核心部その2]

 坂道を登りきると、さきほど、左折した分岐路の手前に出てきた。
 今度は、分岐路を直進していき、油壺温泉の前を通過し、京急油壺温泉キャンプパークの前に着いた。(写真下)
 ここが、以前、油壺マリンパークだった所だ。
 油壺マリンパーク。懐かしい場所だ。まだ小学生だった頃、ここに来たことがあった。生まれて初めて訪れた水族館だったせいか、
見学したことを未だよく覚えている。
 ここで右折し、駐車場を過ぎた後、細い坂道を下っていく。
[京急油壺温泉キャンプパーク]

 細い坂道を下っていくと、その先で道が分かれていた。右手を進んでいくと、その先に墓があるのが見えた。ここが、三浦道寸の墓だった。(写真下)
 説明板は、道が分かれる手前に立っていた。
 『三浦道寸の墓
 新井城主三浦道寸義同は鎌倉以来坂東武門の名族である三浦一族最後の当主になりました。三浦一族は始祖為通にはじまり鎌倉時代には北条氏とともに幕府を二分して覇権を争ったことはよく知られています。この間、和田の乱(和田義盛滅亡)、宝治合戦(三浦泰村滅亡)などいく度か興亡を繰り返し450年の後、奇しくも同じ北条を唱える伊勢新九郎(北条早雲)と戦い、戦国争乱の世の露と消えました。
 永正9年(1512年)北条早雲は岡崎城(平塚市伊勢原市両市にまたぐ)から住吉城(逗子市)などにつづいて三浦氏を新井城(油壺)に攻めました。
 そして日本籠城史でもまれな凄惨な攻防は3年にわたり、永正13年7月11日義同以下城兵ことごとく決戦にのぞみ、ここに、さしもの三浦氏はその歴史を閉じました。
 (義同辞世の歌)
 討つものも討たるるものもかわらけよ 砕けて後はもとの土くれ    三浦市』
[三浦道寸の墓]

 下ってきた道を戻り、駐車場に出たとき、偶然、新井城址の碑を見つけた。(写真下左)
 左奥には、墓があり、スマホで調べてみたら、三浦道寸の嫡男三浦荒次郎義意の墓だと知る。(写真下右)
 

[新井城碑] [三浦荒次郎義意の墓]

 再び、京急油壺温泉キャンプパークの前を通り、その後、右折して西側に続く道を進んでみた。
 すると、
細い坂道を下っていった後、再び海岸線に出た。左奥には、三浦一族資料館が見える。
 ここで、再び海岸線を撮影。ちょうど正面に見るほど、陽が傾いていた。
[再び海岸に出た]

 来た道を戻って、再び京急油壺温泉キャンプパークの前を通り、さらにバス停に向かっていく。
 すると、正面に「油壺温泉」の看板が目に入る。
 ここで、一風呂浴びようとホテル京急油壺観潮荘に入っていく。ここの泉質は、ナトリウム塩化物温泉。なめてみると確かに塩味だった。
 ....風呂には、入るつもりだったので、着替セットを持参していた。
[油壺温泉に立ち寄る]

 ゆっくり温泉に浸かった後、バス停に向かう。
 16:59発の三崎口バスに乗車し、帰路につく。
[油壺温泉バス停に到着]

 17:14、三崎口駅に到したら、西側の空が赤く、富士山が見えていたので、思わず撮影。(写真下)
 [三崎口駅付近にて]


 今回は、関東ふれあいの道第2弾で、油壺・入江のみち、及び油壺ウォーキングコースを歩いてきました。ですが、印象的だったのは、後半のウォーキングコースでした。
 もし、関東ふれあいの道「油壺・入江のみち」を歩かれるのであれば、その後、油壺ウォーキングコースも歩かれることを推奨します。但し、コース通り、胴網海岸で丘に上がり、道寸の墓の前を通ることが前提です。横堀海岸まで歩くと、今回のようにドボン必至です。

 余談ながら、昔の資料「首都圏自然歩道1」(山と溪谷社1991年)を読みますと、油壺・入江のみちは、油壺ウォーキングコースだけでなく、さらに北上し、三崎口駅までのコースが描かれてました。それが、いつの間にか、油壺温泉バス停までのショートコースになったようです。

 なお、今回は、幸いにも右膝が痛くなることはありませんでした。
 ....ちょっと岩場ではドキドキしたけど。



※山行時間には、撮影時間を含んでおりますので、ご注意下さい。