トップページ他山域山行リスト>葛原岡・大仏ハイキングコース_記録20240117


葛原岡・大仏ハイキングコース

 山行日
2024年1月17日(水)  晴        単独行
 コース
長谷(7:52)〜(7:59)高徳院(8:13)〜(8:27)火の見下(8:33)〜(8:43)大仏切通〜(8:58)大仏分岐点〜(9:33)峯山・梶原口分岐点〜(9:40)桔梗山分岐点〜(9:45)桔梗山(9:59)〜(10:06)大仏ハイキングコース合流点〜(10:30)銭洗弁財天(11:05)〜(11:15)源頼朝像〜(11:31)太田道灌墓〜(11:56)海蔵寺分岐点〜(12:02)仮粧坂切通〜(12:24)日野俊基墓(12:26)〜(12:27)葛原岡神社(12:33)〜(13:09)浄智寺〜(13:27)北鎌倉
 今回は、自己未踏の鎌倉のハイキングコースを歩いてきました。このエリアは、そのうち歩く機会もあるだろうと思っていましたが、いつの間にか30年が経ってしまいました。なお、メインは、葛原岡・大仏ハイキングコースですが、これに大仏切通、桔梗山や銭洗弁財天、源頼朝像、仮粧坂切通などに寄り道して歩いてみました。
 詳細は、以下をご覧下さい。


 横須賀線鎌倉から江ノ電に乗車。江ノ電に乗ったのは本当に久しぶりだ。この25年ぐらい乗っていなかっただろう。そんな気がする。
 長谷駅にて下車。(写真下) 今日は、ここがスタート地点だ。
[江ノ電長谷駅にて下車]

 駅から北上し、高徳院(大仏)に到着。ちょうど入場窓口が開いたところだった。既に入場を待っていた3人の観光客の後に続いて拝観料300円を払って入場。ここも江ノ電同様、久しぶりの訪問。
 奥に入っていくと、先行の外国人男女1組に追いついた。(写真下) そこで、じっと大仏を眺めていたら、そのうち最上部の肉髻に朝日が当たり始めた。
...新しい発見。
[大仏を訪問]

 大仏見学を終え、さらに北上していく。この辺りは、観光でも歩いたことがないルートだ。前方にトンネルが見えてきた。(写真下)。 トンネル手前右手には階段がある。「葛原岡・大仏ハイキングコースは階段を上る」というプレートが貼ってあるが、ここは、直進してトンネルに突入する。今回は、トンネルの先からバックするように戻り、大仏切通を通りたかったからだ。
[トンネルを進む]

 トンネルを抜けて緩く下っていくと火の見下バス停に到着。(写真下左)
 ここから戻る様に東側の尾根筋を登っていけばいいのだが、その入口が見当たらない。バス停の前後をウロウロしていたら、突然、トレラン姿の男性が目の前に現れたので、その方向に道があることが分かった。その後、路地の入口を見上げたら、なんと道標を発見。(写真下右)
...Googleマップを見れば簡単に分かったのだが、この道標は高すぎて、ちょっと気がつかない。(と思う)
[火の見下バス停] [見上げて道標を発見]

 細い路地を進むと、尾根筋に上っていく道が続く。道を辿っていくと、切通のような地形に出くわした。だが、ちょうど切通の間から太陽が昇ってきて見事な逆光。余りにもコントラストが強すぎるので撮影を諦め、先に進んでみる。すると、まだ切通が続いていることに気がついた。ここならば、逆光にならないと、前方の切通を撮影。(写真下)
 だが、帰宅後、大仏切通を調べてみると、現在の切通は明治12年から翌年にかけて開削工事されたものだと知って唖然。どうも鎌倉時代の遺跡という訳ではなさそうだ。
[大仏切通を行く]

 切通が終わり、尾根道を進んでいくと、階段を下るようになる。このまま下ると、先ほどのトンネル入口に下ってしまうのではないかと思っていたら、階段下りの途中で左への分岐路があった。
 そこを左折することで、北東方向への大仏ハイキングコースに乗った。そんなにアップダウンのない、歩き易い尾根道が続いている。(写真下)
[尾根道を進む]

 9:29、右手奥に樹林の隙間から海が見えた。ここから海が見えるとは意外だった。手前には、特徴のある逗子マリーナのマンション群が見えていた。
[逗子方面の海が見えた]

 9:33、分岐点に到着。直進は階段登り道。(写真下左) 左手に「峯山・梶原口」の道標あり。(写真下右) 地図で確認すると、ここが桔梗山への分岐点のようだ。今回は、桔梗山に立寄りたかったので、左折する。
[直進は階段登り道] [左折は、峯山・梶原口]

 ほぼ水平に尾根の腹を進んでいくと、途中で右手に「桔梗山」の手書き道標を発見。(写真下) ここで右折すると、登りとなった。
[桔梗山頂上への分岐点]

 どんどん登っていくと、水平路となり、どうやらピークに到着したようだ。前方の樹木(カエデ系)の幹に「桔梗山」の手書き山頂標識を発見。(写真下) ここが頂上かと、何枚も標識を撮影。
[桔梗山の手書標識]

 撮影が終わり、前方を見ると、ほぼ水平に道が延びている。(写真下) 桔梗山のピークは、意外に平たいのかなと思えた。また方角的に見て、これを進めば、再び大仏ハイキングコースに合流するはずと思えたので、進んでいく。
[樹林が続く]

 9:52、すると前方にベンチを発見。(写真下左) そして、その手前には手書きの山頂標識を発見。(写真下右) 「桔梗山山頂」と書かれてあった。ここが本当の山頂だろうか。先ほど「桔梗山」の標識のあった樹木地点と殆ど標高は変わっていないように感じる。
...帰宅後、カシミール3Dで確認したら、このベンチあたりが頂上の円状等高線の中央だった。
 水分補給したり小休止した後、9:59、ベンチを出発する。

[桔梗山頂上] [桔梗山頂上標識]

 10:06、大仏ハイキングコースにぶつかり、左折し進んでいくと、民家のある車道に出た。この辺りは、道標が数多くあるので、迷うことはないだろう。車道を進んでいく。
 尾根筋の大仏ハイキングコースの車道から外れ、少し右手の階段と坂道を下り、10:30、銭洗弁天に寄り道する。(写真下) 入口のトンネルを潜っていく。
[銭洗弁財天宇賀福神社入口]

 社務所にて小さなロウソクと線香を購入し、ザルを借りる。その後、ロウソクに火を点けたり、いろいろ作業を進め、最終的に500円玉コインをザルに入れて奥宮に入る。参拝後、厳かに柄杓でコインに水をかけ洗う。洗ったコインは、心なしかより光って見えた。
...いろいろと忙しい儀式だが、これで金運上昇するならば、苦にならない。
[銭洗弁天]

 銭洗弁天を出て、坂道を登り、再び尾根筋に戻る。
 後は、道標に従い、歩いていくと源氏山公園に入り、頼朝像の前に出てくる。(写真下)
[源氏山公園]

 頼朝像を見上げた後、寿福寺方面に下っていく。
 すると、途中で太田道灌公の墓という立札を見る。(写真下) 太田道灌の墓は、
  洞昌院(伊勢原市上粕屋) 胴塚
  大慈寺(伊勢原市下糟屋) 首塚
にあるが、ここも道潅の墓と称している。立札には以下のことが書かれてあった。
『太田道灌の墓
 江戸城築城で有名な太田道灌資長はこの地で生まれ、扇谷上杉家の家宰として活躍しました。その曾孫である太田康資の娘梶(後に勝)は、徳川家康の側室として水戸徳川家の初代徳川頼房の養母となり、徳川家を支えました。彼女は出家後に英勝院と号し、三代将軍徳川家光よりここ源氏山一帯を賜って英勝寺を開きました。
 この太田道灌公の墓は文政九年(1826)に水戸徳川家の子孫である英勝寺住職が以前の墓を再建したものです。 東光山 英勝寺 太田道灌公墓前祭実行委員会』
[太田道灌の墓]

 寿福寺の横を下っていくと、狭くて段差のある経路となった。ここは、右手の塀の支柱が頼りないので掴むことなく下っていく。(写真下左) だが、支柱を掴む人が多いらしく、支柱が曲がっていた。続いて、その先を進むとミニ切通が現れ、岩壁の間を通り抜けていく。(写真下右) このエリアだけは、散歩道にしては、ちょっと険しいルートだなと感じた。
[寿福寺横を下る] [ミニ切通]

 平地に下り、寿福寺の前を通った後、英勝寺を左に見ながら横須賀線沿いを北鎌倉側に向かって歩いていく。やがて横須賀線の下りが走ってきた。(写真下)
[横須賀線沿いを歩く]

 横須賀線沿いの道から左折し、住宅街を進み、仮粧坂に入る。(写真下) ここは、大仏切通と同様、鎌倉七口の一つである。帰宅後、色々調べてみると、現在のルートが鎌倉時代の仮粧坂そのものという訳でもないようだ。いくつも道の痕跡があり、結局、鎌倉時代でのルートは明らかになっていないらしい。
[仮粧坂切通]

 仮粧坂を登り終え、右折する。銭洗弁財天に寄り道するために右折した分岐点まで戻り、葛原岡・大仏ハイキングコースに戻った。すぐ先の案内板を見て、なんと、この一帯も源氏山公園だと初めて知った。(写真下) それまで源頼朝像周辺だけが源氏山公園だと思っていたのだ。
[葛原岡・大仏ハイキングコース案内板]

 葛岡原神社に向かって歩いていると、左手の木に何かが動いている音がする。タイワンリスかなと思って、よく見てみたらメジロが出てきた。思わず撮影。(写真下)
[メジロが現れる]

 フラットな道を進んでいき、葛原岡神社の手前にある日野俊基墓に立寄る。(写真下)
『日野俊基(ひのとしもと)
 鎌倉時代後期の公家。藤原北家真夏流日野家、刑部卿・日野種範の子。官位は従四位下・右中、贈従三位。
 文保2年(1318年)に即位した後醍醐天皇の親政に参加し、蔵人となる。正中元年(1324年)の正中の変で、討幕を計画したと疑われ、同族の日野資朝らと逮捕された。捜査と審議の結果、佐渡に流刑となった資朝とは違い、俊基は冤罪と判定された。その後、京都へ戻るが、元徳3年/元弘元年(1331年)に発覚した討幕計画である元弘の乱で再び捕らえられる。得宗被官・諏訪左衛門尉に預けられた後、鎌倉の化粧坂上・葛原ヶ岡で処刑された。(中略)
 明治維新後、南朝(吉野朝廷)が正統とされると俊基は倒幕の功労者として評価されるようになり、明治20年(1887年)には俊基を主祭神とする葛原岡神社が神奈川県鎌倉市梶原に創建され、俊基自身にも従三位が追贈された。』
(Wikipediaより)
[日野俊基墓]

 続いて葛原岡神社を訪問。(写真下左)(写真下右)
 鳥居を潜って先を進んでいくと、拝殿の横に「俊基卿終焉之地」の立札が立っていた。ここ葛原岡は、当時の鎌倉の境界線となっていたため、処刑場になっていたという。
[葛原岡神社入口] [葛原岡神社]

 12:33、葛原岡神社を出発。北鎌倉を目指す。
 すぐに右手前方に稜線が見えた。(写真下)
方向から見ると、天園方面のようだ。
[東側の眺め]

 葛原岡・大仏ハイキングコースを進む。この辺りは、大仏切通の先の尾根筋と似たような光景が続く。
 12:52、天柱峰という小ピークに到着。そこには、竺僊梵僊和尚顕彰碑や五重石塔、傾いた天柱峰と彫ってある石柱が建っている。だが手前にロープが張ってあり、立ち入り禁止となっていた。往時は、ここから由比ヶ浜が眺められたというが本当だろうか。
...竺僊梵僊は、元からの渡来僧で鎌倉浄明寺・浄智寺、京都南禅寺・真如寺・鎌倉建長寺の住持となった。
[天柱峰]

 鎌倉五山第四位浄智寺に下りてきた。目の前に浄智寺の鍾楼門が見えた。(写真下) これは、鎌倉では珍しい唐様の門だ。
[浄智寺の前を通過]

 浄智寺からさらに下っていき、車道に出た。左折して進み、13:27、北鎌倉駅に到着。まだ時間はたっぷりあったが、今日は、ここまでとした。 
 [北鎌倉駅に到着]


 今回は、今まで歩いたことのなかった葛原岡・大仏ハイキングコースに欲張って桔梗山、銭洗弁天や仮粧坂等を加えて歩いてきました。ですが帰宅後、源氏山のピークを訪問していなかっことに気がつきました。今まで源頼朝像のある所が源氏山のピークだと勝手に思い込んでいたのが失敗の原因です。ということで、源氏山ピーク訪問が宿題となってしまいました。残念。
 なお、本日は、ハードな歩きをしていないせいか、右膝の痛みは出てきませんでした。この調子で痛みが消えてほしいものです。



※山行時間には、撮影時間を含んでおりますので、ご注意下さい。