トップページ他山域山行リスト>屋島_記録20250406


屋島  〜四国の山〜

 山行日
2025年4月6日(日)  晴 単独行
 コース
琴電屋島(9:11)〜(9:22)道池〜(9:37)加持水〜(9:46)不喰梨(9:48)〜(9:57)屋嶋城跡城門地区(10:02)〜(10:21)屋島寺(10:30)〜(11:35)西尾根展望台(11:42)〜(11:52)やしまーる(獅子ノ霊嚴)(12:01)〜(12:11)仙遊橋〜(12:16)談古嶺(12:18)〜(12:39)北嶺千間広場(12:43)〜(12:56)北嶺最高点(13:03)〜(13:13)遊鶴亭(13:21)〜(13:40)千間堂跡(13:42)〜(14:18)やしまーる〜(14:24)屋島寺(14:30)〜(14:46)南嶺最高点(14:53)〜(15:06)八栗寺分岐点〜(15:39)佐藤継信の墓(15:41)〜(15:46)安徳天皇社(15:49)〜(16:02)菊王丸の墓(16:04)〜(16:29)八栗
 今回、源平合戦で有名な四国の屋島に登ってきました。この山は、昨年NHKにっぽん百低山で「屋島」を観た後、一度登ってみたいと思っていましたところ、たまたま4月の土曜日に高松に行く用事ができましたので、その翌日、行ってきました。
 屋島は、北嶺と南嶺の2つの山から成り立っていますが、今回は、屋島の最高地点に拘り、北嶺の最高地点と南嶺の最高地点を是非訪問しようと考えました。
 詳細は、以下をご覧下さい。 


 JR高松駅にて荷物をコインロッカーに預けた後、駅前に出て、ことでんの高松築港駅に向かう。仕事上、今まで高松には何度も足を運んでいたが、ことでんに乗るのは恐らく初めてではないかと思った。途中の瓦町で琴電志度行きに乗換え、琴電屋島にて下車。(写真下左)
 駅前に出たら、屋島の南嶺が見える。(写真下右) 正面の斜面に2本の筋が見える。あれが、ケーブルカー跡かなと思う。ケーブルカーの開業は結構古く、昭和4年(1929)で平成4年(2004)に営業休止となった。そのケーブルカー跡に向かうように駅前の車道を進む。
[琴電屋島に到着] [ケーブルカー跡を見る]

 駅前の車道を途中で左折して進むと、右手に屋島遍路みち案内の説明板が立っていた。(写真下) 説明板によれば、屋島山麓より山頂を経て八栗五剣山に至る道は弘法の道と呼ばれているらしい。これが探していた登山ルートだ。これからのルートを確認すると、この先の坂道を登っていけば屋島の山上台地にある屋島寺に続くようだ。 
[屋島遍路みち案内(弘法の道)の説明板]

 道池の横を通過する。この池は、江戸時代に水不足のために築造された人工池という。池の奥には屋島南嶺が見えていて、頂上がテーブル状になっているのが分かる。(写真下)
[屋島南嶺と道池とレンギョウ?の黄色い花]

 遍路みちを進む。どこが登山口だったのか分らないまま、階段道となった。(写真下) 道幅はそこそこあり、舗装されているので車が通れるのかなと思っていたが、これでは車は通れないことが分かった。
[屋島寺に続く遍路みちを行く]

 9:46、不喰梨に到着。(写真下左) この手前の加持水もそうだったが、石仏群が設置されてあった。これが弘法の道の特徴なのかなと思えた。このまま舗装路の坂道を進めば、屋島寺に到着するが、ここで右の分岐路が目に入る。(写真下右) よく見ると屋嶋城城門に行くルートのようだ。そこで遍路みちから離れ、城門に向かうことにした。
[不喰梨] [屋嶋城跡 城門へのルート]

 いきなり道が細い階段道となる。今までとは全く違う性格の道だ。傾斜もキツく息が切れる。一歩一歩登っていく。(写真下)
[細くて急な階段道となる]

 9:57、目の前に城壁が現れた。これが不喰梨で見た案内板の城門のようだ。(写真下)
『屋嶋城(やしまのき)
 唐と新羅の連合軍に攻め滅ぼされた百済を再興するため日本は救援軍を朝鮮半島へ派遣しましたが、西暦663年8月、白村江の戦いで両国連合軍に大敗しました。これを契機として、唐・新羅の侵攻に備えて対馬から太宰府周辺・瀬戸内海沿岸に作られた朝鮮式山城の一つが屋嶋城です。日本書紀の天智天皇6(西暦667)年11月の条に
 「倭國高安城(やまとのくにたかやすのき)、讃吉國山田郡屋嶋城(さぬきのくにやまだのこおりやしまのき)、對馬國金田城(つしまのくにかなたのき)を築(つ)く」
  (※倭國→現在の奈良県、對馬國→現在の長崎県対馬市)
との記載がありますが、長らくその実体はよく分かりませんでした。平成10年2月に南嶺山上部近くの西南斜面において石積みが発見されたことを契機にして、南嶺北斜面・南斜面で確認されていた土塁と関連することが分かり、東斜面でも同様の地形が確認されたことから、山上部付近の斜面に断続的ながら古代山城屋嶋城の外郭線(防御ライン)が巡っていることが判明しました。(以下略)』
 (高松市公式ホームページから引用)
 これほど古い城跡を訪問するのは初めて。非常に美しく整備されているのが印象的。
[城門に到着]

 振り返って城門と高松市街地方面を眺める。(写真下) 気温が高いせいか、霞んでいる。ここまで来ると観光客がチラホラ見られた。どうやら下から登ったのではなく、車で山上の駐車場から下ってきたようだ。
[城門からの眺め]

 10:03、屋島の南嶺の山上台地に到着。(写真下) この先を見ると、殆どまっ平となっている。観光地図を取り出し、南嶺の最高地点の位置を確認する。最高地点は、ちょうど西側舗装路と東側舗装路の間に位置している。よって、まずここから東側の舗装路を進むことにした。その際、左手に南嶺最高地点に行ける経路がないかとウォッチしながら歩く。
[山頂の平坦地に上った]

 だが、南嶺最高地点への経路は見つからなかった。南嶺最高地点は、西側舗装路から入るのかなと思い、ならば、帰りに立寄ろうと計画を変更。このまま東側の舗装路を進み、屋島寺を訪問することにした。途中で左折し、血の池の前を通り、屋島寺の東大門前に到着。(写真下) この門を見ると、とても新しい寺に見える。
[屋島寺東大門]

 屋島寺本堂を参拝後、西側の方から寺を出て、西側の展望地に向かう舗装路を進むと、小さな道標を見つけた。(写真下左) 左へ西尾根展望台260mと書かれてある。まずこの展望台に行ってみることにした。
 集いの広場を突っ切っていくと樹林帯の経路となった。(写真下右) この先が西尾根展望台のようだ。
[西尾根展望台への道標あり] [樹林帯を進む]

 11:35、展望台らしき場所に出た。ここからは、南方面の讃岐平野が広がっている。(写真下) だが、残念ながら遠方が霞んでしまっている。
 後日、ネットで調べたところ、この西尾根展望台は、屋嶋城跡城門遺構整備事業の際、同時に整備されたことを知った。
[西尾根の展望台]

 西尾根展望台から集いの広場に戻り、舗装路に出てきた。(写真下) この先は、西側の観光ルートを歩いていく。
[舗装路に戻る]

 今日は日曜日という事で、観光客が多い。だが、(写真下)には、たまたま誰も写っていなかった。これは、やしまーるという展望台から見下ろした光景。なお、桜もタイミングよく満開を迎えていた。
[やしまーるからの眺め(獅子の霊巖)]

 西側の高松港方面を眺めながら北上していく。(写真下) 北側に屋島の北嶺が見えているが、南嶺と同様、山頂が真っ平な地形となっている。
[展望エリアを進む]

 西側の展望台から離れ、駐車場の方に進んでいく。すると左手に満開の桜が目に映る。(写真下) いいタイミングで訪れたものだと一人ニンマリする。
[桜が満開]

 なんでこんな台状の山ができたのかと思っていたら、ちょうど屋島の地形・地質という説明板を見かける。(写真下) やはり、この地形に興味を持つ人も多いのだろう。
『屋島は、上部が平坦で屋根の形をした台地形ですが、どうしてこのような地形ができたのでしょうか。瀬戸内海一帯の大地は花崗岩を基盤としていますが、花崗岩は風化が著しく、また風雨にもろく侵食に弱い性質をもっています。しかし、屋島は花崗岩の上を硬い溶岩(讃岐岩質安山岩)が水平に被っているため、まわりの花崗岩が侵食されても崩れないで残ったものです。このような地形をメサ形溶岩台地といい屋島の他、小豆島、五色台、紫雲出山などがあります。(後略)』
 う〜む。なぜ、花崗岩の上に硬い溶岩が存在したのか。もう一歩、説明が欲しいところ。
[屋島の地形・地質の説明板]

 南嶺の北側に向かう。右手に駐車場が見える。(写真下) 屋島スカイウェイからどんどん車がやってくるのが分かった。今日は花見とドライブの観光客が多そうだ。
[右に駐車場を見る]

 南嶺の北端となる談古嶺に到着。ここも展望台の一つだ。ちょうど北嶺が一望できる。(写真下) また東側には、源平屋島合戦での史跡も見渡せる。平氏の舟隠し、那須与一扇の的、義経の弓流しなど。
[談古嶺]

 談古嶺を出発し、いよいよ南嶺から北嶺に移動する。しかし、北嶺に入った瞬間、あれほどすれ違っていた観光客の姿がピタッと消えてしまった。この事象は、谷川岳でオキノ耳から一ノ倉沢岳に向かった瞬間、一気に登山者が消えてしまった時を思い出す。
 北嶺の道は、南嶺同様、フラットで舗装されていて歩き易い。12:37、Y字路となった。(写真下) 地図で確認すると、舗装路は東西に分かれるが、再び合流することが分かった。ここは、左を進む。
[道が左右に分かれる]

 Y字路で左を進んだが。すぐに千間広場への道標があり、右前方に進んでいくと、見事な広場が見えてきた。(写真下) ここで、ランチタイムとした。誰もいないと思ったら、遠く木立の下でハイカーの男女1組が休憩していた。
[北嶺千間広場]

 北嶺千間広場からほぼ島中央の背筋を歩いていくと、未舗装路が北側に続いているのを発見。これが東西舗装路の間にある未舗装路だと分かった。北嶺の最高地点に向かうため、この真ん中の未舗装路を進む。周囲は樹林帯でほぼ水平なため、どこが最高地点かは眺めているだけでは分からない。
[中央の未舗装ルートを進む]

 すると未舗装路が交差する十字路に出た。北嶺最高地点は、地図によれば、ここから右斜め前方(北北東)の方向だ。ということでまず右折する。そして左側を見ながらゆっくり歩いていく。すると赤テープのある箇所を発見。(写真下左) ここだなと思い、奥に踏み込むと小さな手書き標識を見つけた。(写真下右) だが、正直なところ、ここが北嶺最高地点と言っても全くピンとこない。周囲は、ほぼ平らで1/25000地形図で、・282と記されているだけの地点にすぎない。
[ピンクのリボンあり] [北嶺の最高地点]

 北嶺最高地点から未舗装路に戻った後、そのまま東に向かって東側舗装路に出た。ここで左折し、北上していく。すると、右手に展望台があったので寄り道。(写真下) ここが北嶺展望台(北)だ。
[北嶺展望台(北)]

 北嶺展望台(北)から北東側の瀬戸内海を望む。正面に薄ら見える大きな島は小豆島ではないかと思えた。(写真下) 霞んでいなければ、もっと楽しい撮影になっただろう。
[北嶺展望台(北)からの眺め]

 13:13、北嶺の先端、遊鶴亭に到着。白い円形屋根と手摺が目立つ。 (写真下) 風が意外と冷たい。遊鶴亭という看板はなく、「屋島北嶺と備讃瀬戸」と「瀬戸内海国立公園」という説明板があり、前者の文中、及び後者の地図に遊鶴亭の文字を見つけた。
『屋島北嶺と備讃瀬戸
 ここ遊鶴亭は屋島山上の最北端に位置し、視界320度の展望を誇っています。展望台から山道を下ると長崎の鼻に至り、高松藩によって築かれた長崎の鼻砲台跡あります。眼下に広がる備讃瀬戸は、桃太郎さんが鬼退治をした鬼ヶ島(女木島)、オリーブの小豆島、おむすびのような大槌島と小槌島など、瀬戸内海国立公園のなかでもっとも美しい風景が一望できます。』
[遊鶴亭]

 遊鶴亭から瀬戸内海北部を望む。一隻の船がこちらに向かっていた。(写真下) ふと人の声が聞こえたので振り返ったら若い男性2名女性1名の3人の観光客が到着していた。会話は日本語でなく中国語で、南嶺からこの北嶺の先端まで歩いてきたようだ。3人を残して先に出発する。
[遊鶴亭からの眺望]

 帰りは西側舗装路を歩き、途中で左折し、山の中に入っていく。千間堂跡を訪問するためだ。千間堂跡への道標に従い、樹林帯の奥に入っていく。(写真下)
[千間堂への道標]

 目の前に杭とロープで囲まれたエリアがあり、どうやらここが千間堂跡のようだ。(写真下) 左手に説明板が立っていた。
『千間堂遺跡
 このあたり一帯で発見された遺跡は「千間堂」と呼ばれる仏堂の跡で、現在南嶺にある屋島寺創建の地と伝えられています。平成12年2月の発掘調査において基壇の上に礎石建物跡が発見され、基壇の中から須恵器多口瓶という仏具が出土したことから寺跡であることが判明しました。建物規模は東西3間(約5.4m)、南北2間(約3.6m)で、当時格の高い建物とされていた礎石建物跡が他には周辺に確認されなかったことから、この建物が寺院において最も重要な仏像を安置するための仏堂であったと考えらます。建築年代は出土した多口瓶の特徴から平安時代中期(10世紀前半)頃と推定されています。(後略)』

 遊鶴亭からここに来る途中、「屋島城跡と千間堂跡」の説明板があり、千間堂跡は、
 『この屋島には、唐招提寺を開いた鑑真和上が天平勝宝6年(754年)に大和に向かう途中暴風雨に合って屋島北嶺に上陸し堂を建てたいい伝えのある千間堂跡があるが、現在は湿地となっています。』
 と書かれてあったが、多口瓶の年代などから見たら、やはり鑑真和上が建てたという時代までは遡れないのだろうか。残念。
[千間堂跡]

 13:50、北嶺展望台(南)に到着。(写真下) 行きの時もここを歩いたのだが、この展望台にどういう訳か全く気がつかなかった。ということで、帰りは右手に注意しながら歩き、展望台を見つけた。
[北嶺展望台(南)]

 北嶺展望台(南)から南嶺の西側を眺める。(写真下) 南嶺の台地上には展望台あたりが見えていた。
[南西側を眺める]

 北嶺から南嶺に戻ってきたら、再び西側の展望台エリアを歩く。先ほど歩いた逆のコースだ。その後、屋島寺に戻り、再度、屋島案内図を見る。(写真下)
 南嶺最高点は、屋島山頂と書かれていたが、経路は書かれてなかった。ここから南側に出て、行きで登ってきた屋嶋城城門の方に向かって西側舗装路を歩けば、南嶺最高地点入口があるはずと推察。
[屋島寺での案内板に屋島山頂の表示有]

 西側舗装路を歩いていくと城門分岐点のだいぶ手前で、左手に細い経路を発見。位置的に見て山頂はこの奥だろうと進んでいくと、なんと鉄塔が建っていた。広域水道企業団のものらしい。だが、その先にも経路が続いており、辿ってみたら予想通り山頂標識「屋島南嶺・292m」を発見。(写真下) 近くに三角点があり、この三角点、大きいなと思ったら、一等三角点だった。これで北嶺、南嶺と最高地点を踏むことができ、今回の山歩きの目標達成ができた。
[南嶺三角点]

 城門分岐点を通り、南嶺の東側舗装路を再度歩く。ここは、城門から頂上台地に上った時、南嶺最高点を探すために通ったルートだ。先ほどのやしまーる辺りの舗装路といい、ここも2回めの歩行となる。
 15:06、85番札所八栗寺の分岐点に到着。石仏に参拝した後、ここで右折し、屋島を下って東の八栗寺へのルートに入る。(写真下)
[八栗寺への分岐点]

 いきなり急な階段道になり、焦る。(写真下左) 屋島寺では、北ア縦走ができそうなザック装備で巡礼している単独男性を見かけたが、ザックを背負ってこの下りは要注意だろう。
 さらに下っていくと道が歩き易くなってきた。やはり最初だけが急なようだ。途中、屋島スカイウェイを横断する。(写真下右)
[いきなり急な階段下りとなる] [屋島スカイウェイを横断]

 下りの途中、弘法の道らしく石仏を何体か見かける。
 ようやく舗装路となったが、急な直線下りで太腿が痛い。すると樹林帯から抜けて正面に五剣山(八栗山)が見えてきた。(写真下) 午前中より、今の方が空気が澄み切っているようで五剣山がクリアに見える。
[五剣山(八栗山)を望む]

 この先は、源平の屋島の戦いに関する史跡がいくつか出てくるので、それを訪問しながら歩いていく。一本道を下っていくと、左手に佐藤継信の墓を見つけた。(写真下) 
『佐藤継信は、寿永4年(1185)2月の源平屋島合戦のとき、平家の武将能登守教経(清盛の甥)の強弓により大将義経の一命危ういとみて義経の矢面に立ち、身代わりとなって討死しました。』 (屋島遍路みち案内の説明板より抜粋)
[佐藤継信の墓]

 佐藤継信の墓を参拝後、さらに下っていくと民家が増えてきて十字路に出た。右折して南下していき、安徳天皇社の前に到着。(写真下) 下記説明板が立っている。
 『安徳天皇社
 (前略) ここは、檀の浦の入江にのぞみ、後ろに険しい屋島の峰、東に八栗の山をひかえ、戦には地の利を得たところであったので宗盛は、行宮を建て将士の陣営をつくりました。安徳天皇社あたりが行宮跡であったといわれています。』 

 ちなみに屋島にも檀ノ浦という地名があり、ややこしい。こちらは、「檀」という字で木偏となっている。
[安徳天皇社]

 続いて菊王丸の墓を参拝。
『教経に仕えていた菊王丸は、佐藤継信の首を切り落とそうとしましたが、そうさせまいとする継信の弟忠信の弓によって倒されました。菊王丸は教経に抱きかかえられ、自らの軍船に帰りましたが、息をひきとりました。教経は菊王丸を憐れんでこの地に葬ったと伝えられています。』(屋島遍路みち案内の説明板より抜粋)
 その後は車道を南下していくが小さな川の対岸には桜が満開だった。(写真下)
[桜並木が続く]

 南下していき、相引川を渡る時、立ち止まってgoogleマップを見る。よく見たら八栗駅に行くのであれば、途中で左折した方が近いことを知った。まあ急ぐ旅でもないので、このまま県道155線まで出て左折する。
 16:29、八栗駅前に到着。(写真下) この時刻ならば、予定通り高松へ戻れそうだ。ホーム上で電車を待っていると風が吹いてきて、歩き終えた身体に涼しさが戻ってきた。
 [ことでん八栗駅に到着]


 <後日談>
 屋島から帰宅して数日後、そういえば、20代後半の頃、バイク・ソロツーリングで四国を回ったとき、八十八ヶ所のどこかの寺を訪問したことを思い出しました。そこで過去のアルバムを紐解くと、何と屋島寺でした。他に談古嶺の写真もありました。ということで、屋島は今回が初訪問ではないことが判明しました。もう何十年と経つ旅の記憶は、脳裏から離れてしまったようです。
...今回、屋島寺の東大門の前に立っても、以前来たことに全く気がつかなかったことが残念。



※山行時間には、撮影時間を含んでおりますので、ご注意下さい。